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庄内協同ファ-ムだより 1998年7月発行 NO.44

「食わずしては生きられない」

冨樫俊一 鶴岡市白山 1998.7.19

 生きると言うことは食うことだ。食わずには何も始まらない。その”食う”為の作ることを農民は放棄し始めた。長年のストレスがここに来て出始めている。転作の強化や米の暴落をはじめとする様々な制度の歪みが一気に噴出し、ガンバレ、ガンバレと言われても頑張りようがなくなって来ている。
 農産物を生産するという事は命を育むことだ。その命が軽んじられている。今こそ”食べる”事の意義をもう一度みんなで考えて見る必要があるのではないか。人間は食わずしては生きられないのだから。
 今のままだと現場は、村はあと10年、いや5年持つかどうか?決してオ-バ-な事を言っているのではない。日本の中堅農家の平均年齢は既に65才を越えている。米作り農家も今やボランティアにされてしまった。当然、後継者なんて育つはずもない。
ところが、ところがである。ここに”異大”なる農民集団がある。決して”偉大”ではない。その名を庄内協同ファ-ムと言う。みんなが振り向かなくなっている米作りに、農業に必死で取り組んでいる。まさに田舎の天然記念物である。除草剤1回だけ使用して米作りをしてみようとか、全然使わないでカモや鯉や微生物に働かせて高みの見物でいこうとか?しかし、どっこい愚か者の考えることはそんなにうまく行くはずもなく最後に登場するのは昔懐かしい”除草機”と言う事になる。村の連中もその光景を珍しがって寄って来る者や、危険を察知して遠巻に眺めている者など様々だ。
春はドロオイ虫で真っ白になったり、夏は夏でヒエという雑草が一面に茂り、その”異大”さを存分に発揮することになる。懲りない面々はそれでもやけに明るく、いや開き直ってか、ますます熱が入ってくる。
思いと現実のギャップに、もがき苦しみながらも、それでも必死に農業に頑張っている。そんな仲間を私はいつも自慢に思うし誇りに思っている。みんながいるから頑張れる。少々おつむの辺りが寂しくなっても、おなかが出っ張っても、細かい字が見えにくくなっても気にしない。食べてくれる人がいる限り百姓で、頑張って行こう。 

 それにしても夏は暑い。ビ-ルだ、ビ-ルだ。ビ-ルには枝豆だ!そうです。
協同ファ-ムの枝豆部会は、これからが一番忙しい季節に入ります。
何! だだちゃ豆をしらないだと!
食ったことがないだと!

まずは電話かファックスで、すぐにお問い合わせを。あなたの御一報が村を救うかも知れませんヨ?
 田舎のおっさん達は暑く燃えている。

(熱の入る冨樫です。)

44-1

スケッチ

佐藤喜美 鶴岡市 平京田 1998.7.23

羽黒山の花祭り

 7月15日に、全国的に知られている出羽三山の一つ霊峰羽黒山で「出羽三山神社の花祭り」がありました。
 私の住む鶴岡市平京田は、江戸時代以前(どのくらい昔かは集落の最長老もわからない)に出羽三山神社が火事になり、その煙が集落の薬師神社のほこらから出てきたという言い伝えから、かなり昔から氏子になっていて神殿に奉られてある三基のみこしの一基の担ぎ手として毎年参加します。 
             義父の若い頃は、前日の午後11時の鐘の音と共に集会所に集まり、みんなで歩いていったということでした。何の娯楽もなかったその当時は、神事であり楽しみの一つでもあったようです。 この日は、庄内一円をはじめ県内外から訪れた祭り客が「稲の花」を奪い合います。
 稲の豊作を願う花祭りは、松例祭、八朔祭りとともに出羽三山神社の三大祭りの一つで、稲の花をあしらった依代(よりしろ)の「花梵天」の先に飾られた造花の「稲の花」を家に飾ると豊作になると言われています。
   夏の日差しが照りつける中、午後1時すぎ、黄、赤、白の三本の花梵天が月山、羽黒山、湯殿山の三基のみこしとともに合祭殿前の鏡池周辺を練り始めると、祭りは最高潮。
 境内を取り囲んだ祭り客は、高さ約5㍍の花梵天が傾くたびに、われ先にと花を奪い合い池の周りを半周しないうちに三本ともほとんど丸裸にされていました。この祭りが終わるとここ庄内地方にも本格的な夏の到来です。今年の稲の豊作を願って羽黒山を後にしました。

羽黒山花祭

羽黒山花祭

羽黒山花祭

羽黒山花祭


庄内協同ファ-ムだより 1998年6月発行 No.43

スケッチ

富樫裕子 余目町 1998.6.30

『暑い夏が終わりかけた頃、ドイツのコブレンツからキクちゃんがやってきた。「英語だってやばいのにドイツ語だぜ、どうしよう」我が家は大騒ぎ。11月の中旬、妻が協同ファ-ムの仲間たちとイタリアとドイツへ10日間の旅行へ。ストックの花の収穫の真っ最中で私は収穫と出荷で忙殺される。ドイツからFAXで「愉しい旅行をしています。ストックの収穫よろしくネ」としおらしい便り。そして高1の娘が、来年アメリカに留学することが決まり、我が家も世間並みに国際化に飲み込まれました。世の中、自由化とビックバンの時代とかで、もうメッチャクチャ。「我が家」と「ニッポン」どういう新年になりますか』
 これは夫が書いた今年の年賀状の文面。
 下の娘が高校の国際科に入学。あなたは何ヶ月くらいなら留学生を受け入れますかという入学式の日のアンケ-トで、少しは覚悟していたのですが、思いもよらない展開となりました。昨年の7月頃、娘の家族一人一人への説得に、夫や舅はほどなく承諾。けれども4~5年前から三食すべての食事の担当をしている姑はなかなかすぐに返事を出してはくれませんでした。それでも娘の強い説得で、キクちゃんは我が家へ来る事になり、心配していた言葉は、日本語、フランス語、英語、ドイツ語を流暢にはなせる彼女によってすぐに解決されました。
 25年前にドイツに渡ったという彼女の両親ですが、キクちゃんは生まれも育ちもドイツ。なかなか日本人と同じという訳にはいかず、簡単に受け入れを承諾した男達は細かい事でぶつぶつ。そのたびに姑の「家の生まれの者には、よそから来た人の気持ちなんかわからねもんだ。引き受けた以上は気持ちよく帰してやるもんだ。」の一言に、次の言葉を失ってしまいます。
 そういえば、私はこの家に嫁いで20年以上たつけれど、姑と喧嘩した記憶が1回あるだけです。姑はあまり口数の多い人ではない分だけ、なれない時は何を考えているのかわからないもどかしさや、やさしい言葉をかけてほしいという思いにかられたものでしたが、慣れてくると、それが彼女流と理解できる様になり、不思議と腹の立つ事がなくなりました。いつも強気で、少々の事では医者にもかからない人でしたが、70をすぎて歳にはかてず、田植えを今年も手伝ってくれてしばらくしてから、左手に違和感を感じた時、異常に高い血圧に一番驚いたのは彼女だったと思います。近くのかかりつけの医院でという姑に病院での検査を強くすすめ、10日余りの入院生活を送る事になりました。
 2月からよその家にいっていたキクちゃんも二度も見舞いに来てくれて、彼女が柔道の練習の時に手首を鍛えるために使う器具をプレゼントしてくれ、その後何度か我が家に泊まって、家族全員で見送る中、先日ドイツへと帰っていきました。
 我が家は夫と父と母、それに祖父母がおりますから、女性が3人になりますが、ほとんど言い争った事がありません。3人だから逆にバランスが保てているのかもしれませんが、祖母はいつもひかえめで、私の子供達が小さい時に面倒をみてもらいましたが、そのおかげでやさしい子供達に育ってくれたのかもしれないと思ってます。
 大家族の中での女性の果たす役割、特に農家にとってはすごく大きいものがあります。今回姑が10日間の入院の時には、私にとっては農作業と家事に追われ、まったく余裕のない日々が続きました。私も2年ほど前、2ケ月間ほど入院しましたが、姑は大変だったろうと想像できます。最近、弱音を吐く姑に、「おばあちゃんらしくないネ」と言うと「一応中風だからネ」と笑って答えました。まだまだ前の様に元どうりになるまではしばらくかかりそうだけれど、一日も早く元気になってほしいと願ってます。

”東京から”No2「立っているところ」

東京駐在員 吉澤 淳 98/6/29

―あの頃―

 庄内行き全日空の金をかけた機内誌に、パリの5月革命の話が載っていた。1968年の事だからもう30年も前の話だ。当時の運動家たちも、社会の中枢にまでのぼりつめていて、インタビューした所、あまりに保守的になっていて驚いたとお決まりのオチが付いていた。日本でも当時「意義申し立ての運動」が全国を席巻していて、まだ小さかった私の記憶は断片的なニュースの映像。ハッキリと印象に残っているのは、浅間山荘事件(1972)で、ランドセルを置いてずっとTVを見ていた。

―若い頃―

 庄内協同ファームの男衆は、第二次世界大戦に日本が負けてから6年の間に生まれた者が多い。だから同時代に色々なことを見て感じていたと思う。同じ農民の問題ということで、だいぶ三里塚(成田)空港の反対運動には心情的な肩入れをしたようだ。小川プロの「三里塚」シリーズの映画上映会を地元庄内でやったのが組織発足(庄内協同ファームの前身の庄内農民レポート)のきっかけだったと聞いている。
 農家の長男が当たり前のように跡取りになった最後の世代だ。以前、ある男衆が描いた絵を納屋から引っぱり出して見せてもらったこがある。赤い大きなトラクターの前で誇らし気に腕を組んだ二十歳の彼がいた。彼らが就農した頃はまだ手作業中心の農業で、こんなことを一生やるのかと思うと気が滅入ったという話も聞いた。まだ減反も始まってなく、国民の食糧としての米を増産しようというかけ声が高らかに響いていた。
 当時、多くの男衆が通った庄内農業高校には教員に評論家の佐高信(さたかまこと)がいた。「社研」の顧問もやっていて、何人かは部員だった。音楽・美術・芝居が好きで、「少々訳ありの喫茶店」に溜まっていた。今でも、ラッパを吹きバンドをやっている者、絵を描いている者が何人もいる。さすがに芝居はやらなくなったようだが以前は劇団までやっていた。まあ、ちょっとハズレタ、イケテル連中だったのは事実だ。同年代の人なら腑に落ちる、社会という大きな醸造装置が産み出した、とある組織が庄内協同ファームの原形だ。

―それから―

 組織を作り、農業問題を語り合い、地元の古老の聞き語りを冊子にまとめ、減反を拒否しようと挑み二軒以外は心ならずも挫折して、農協が買ってくれない仲間の米を売ろうと産直を始め消費者(団体)と出会い(この辺りから私も登場)、稲作中心の農業の冬仕事として餅加工を始め、組織を法人化し、加工場も建て、非農家出身の専従職員も雇用した(みんなの母校庄内農業高校卒業の二十歳のカッコイイ青年もいる)。加工技術は向上し、おかげさまで売上げも伸び、各人の経営に占める産直の割合も大きくなった。
 こんな風に書いてしまえば、25年などあっという間だ。ふと集落を見渡せば専業農家の数はどんどん減っている。山場の方では耕作放棄地も増えている。まずは自分たちのことで精一杯だが、自分たちだけでは農業は続けられない。何とか周りの農家のことも考えなければと思うのだが、有機農産物市場はそれ程大きくなく、競争も厳しい。それよりも、大学に通い始めたわが家の子どもたちの将来に頭を痛めている。冴えた青年たちもフツーのお父さんになった(まだカワリモノと言う人たちもいるけれど)。
 若い頃からいろんなことをやっている割にはけっこう慎重で、石橋を叩いて壊す(?)と言われた我が男衆は、さらに寄る年波を味方に付けて例に漏れず保守化してきた。パリも庄内も変わらないだろうし、新しいことに挑戦する気力はともすれば失われがちだ。どんなに過去が素晴らしくても昔は昔で、大切なのは今やっていることだ。今年などは水田の除草のため、ある農法(やり方)に多くの人が取り組んだ。「鴨」や「鯉」も使っている。農薬や化学肥料の使用量を減らす為の実践も年に一度しか試せない。失敗したら経営上大打撃になる。これといって確立された農法が無い中で地道な努力が続いている。

―これから―

 「環境ホルモン」や「遺伝子組み換え農産物」に大きな関心が集まる中、組織で直接加工しているものについては包装資材もすでに対応が済んでいる。各人が生産加工しているものについては遅まきながら点検を始めた所だ。使用済み農業資材の処分方法や、組織では出荷していないが畜産の飼料(ほとんどを輸入に頼っている)等すぐには解決できない問題もある。切ない話だがそれを言い訳にせずやっていけたらと思っている。

 「環境ホルモン」や「遺伝子組み換え農産物」の問題は、マチに住もうがムラに住もうが等しく、「さてどうするんだい」という問いかけを私たちに発している。現在の暮らし方が問われているのだ。問題提起や警鐘を鳴らす時は過ぎ、後はできることできないことを正直に語りながらの実践しかないだろう。私たちの歩みは遅いかもしれない。けれど、今起きている問題を全身で受けとめて、美味しくて安全な農産物や加工品をこれからも作り、届けていく。

 夏の企画品どうぞよろしく。


庄内協同ファ-ムだより 1998年5月発行 No.42

苗箱にミミズの赤ちゃん

小野寺喜作 鶴岡市 1998.5.23

我が家は今年もマイペ-ス(?)の農作業をしている。気温が高い日(30度をこえる夏日もあった)が多く、苗の生育が予想以上に早かった。苗にせかせられる様に農作業が進み、5月初めに田植えをした農家もあれば、私のように5月19日の田植えといった調子もある。
 周囲の農家より7~10日遅い種まきを4月19日にした。箱詰めした土に白いカビがたくさん見える。手伝いの子供たちから「お父さん、こんなカビだらけの箱に種まきして大丈夫だ?育たないのでは?」との声。悪いカビでなく、有用な放線菌だから心配ないと思うのだが....。不安な気持ちを抱きながら、生育を見守った。
 好天に恵まれ肥料を少し控えすぎたため、葉の色は淡いが、しっかり根張りも良くみるからに丈夫そうな苗ができた。育苗中の防除も薬剤でなく、玄米酢、木酢、天恵緑汁等を2回ほどやっただけだ。本田の肥料も有機100%の取り組みをした。 周囲の田植えがすっかり終わった5月17日に代掻きをし、19日に田植えをした。田植えの際、苗の根の部分が赤いのに気がついた。   カビ?よく見ると糸状のものが動いている。なんとミミズの赤ちゃんのかたまりだった。他の苗も見ると赤い糸のかたまりがあった。有機100%のためなのかは定かでないが、小さいミミズの赤ちゃんを見て、何故かうれしい気持ちになった。
 水の中にも小さい生き物たちがたくさん動きまわっている。生き物に囲まれたなかでの農業だ。
 毎年、より安全な農作物作りへの取り組みは、失敗をくり返しながらも、少しずつ確かなものがみえてきた様な気がする。
 私が田植えを遅くするのには理由がある。畑作業(だだちゃ豆の種、枝付け)との関係もそうだが、カモによる除草で無農薬栽培の稲作りをしているからだ。 カモのヒナ(生後1週間)を田に放つ日(今年は27日の予定)から逆算して田植えの日を決め、代掻き日、種まきの日を決めている。田植え後、日数があきすぎて、ヒエが大きくなるとカモがヒエをよけて除草をしないのだ。気温が高くならないと、カモが寒さで死んだり動きが悪かったりするので、5月下旬にならないとカモを本田にいれられないのだ。今年は90a分を無農薬有機栽培で取り組む計画でスタ-トした。ほかは除草剤1回使用、有機率70%(N換算)の低農薬栽培だ。 種モミの消毒は、60度のお湯に15分間つける方法で済ませた。種まきする土も化学肥料は使えないので、有機100%のぼかし肥料をまぜてやった。当然土壌消毒剤や、育苗のための薬剤も使わなかった。

”東京から”NO.1 「5月」

東京駐在員 吉澤 淳 1998.5.23

 月に一度は、打ち合わせや会議のため庄内に行く。東京からの交通手段は、上越新幹線新潟経由、羽越線特急乗り換え鶴岡まで約4時間かかる。羽田から一日3便の飛行機だと庄内空港まで約1時間。空港から事務所までは、誰かに迎えに来てもらうこともあるけれど、ここの所のお気に入りはバスと徒歩。最寄りのバス停で降りて20分位、国道をはずれ集落を抜け田んぼの中の農道をぼっちらぼっちら歩く。今回は天気も良くおまけに爽やかな風まで吹いてくれて、例年になく早く田植えが終わった田んぼの中を歩いて行く。驚いたムクドリが慌てて飛んでいった。カエルの大合唱はもう少し先だ。 ここら辺りの水田の一枚の大きさは3反(900坪。約30アール。1アールは10m×10m。)だから、端から端までけっこうな距離がある。
機械の能力かその水田のくせか個人の性格か。きれいに並んで植えられた苗も良く見ると、微妙に曲がっていてオモシロイ。きっと何か考え事をしていたんじゃない、ほらあんなに曲がっている。君のせいじゃないよね。秋には大きな実りを頼むよ。
 さて主たる用件の会議の方は、缶入りのお茶のコマーシャルじゃないけれど、「日本の会議は」というやつで終わったのが夜の11時半過ぎ(どこも同じかな)。その後、ぐちゃぐちゃしみじみハハハと酒飲み話しで、午前の3時半。もういい加減と、ひとり事務所で眠ろうと灯を消すと窓がほの明るい。月かと思い窓を開けるともう空が白みはじめている。東京よりずっと夜明けが早いんだ。
 春はみんな忙しく誰も遊んでくれない。こんな感じも悪くないなと帰り途、羽田の滑走路の際にはシロツメグサ。


庄内協同ファ-ムだより  1998年4月発行 No.41

スケッチ

志藤知子 藤島町 1998.4.24

 四季のうちでも春は、何か特別心弾む贈り物を運んでくるような響きがある。ものみな芽ぶ吹き、花ひらく新しい区切りの季節でもある。我が家でも、やぎが子を生み、カモが産卵を始め、ウド、ウルイ、笹竹、ワラビなど春の山菜が次々と食卓を賑わす。
 末っ子が高校生の仲間入りをし、今まで寮生活をしていた次男が自宅通学となって、去年一年休んだ弁当作りが復活して、朝の台所を忙わしくしている。
 3月には、5時45分だった私の目覚まし時計は15分ずつ早くなって、今は5時15分。一気に早く起きれなくて冬の時間を惜しむように設定は、少しずつ早くなる。夏時間まであと15分。急に忙しくなった農作業にやっと追いついている私の体は、その15分を惜しんで、1日延ばしにしている。
 今年72才の母は私より早く起きて台所に立つ。高校生二人の弁当と、食事の支度を引き受けて、家事万端をこなす。農作業で忙しい私に替わって、自分のできる事で家の役に立ち、家族で助け合って暮らしていくことを心から望んでくれる強力な味方でもある。この母に支えられて、忙しいながらも人並みに子育てもし、春の節目を通り過ぎてきたように思う。
 労働の場と生活の場が同じである農家にとって、家族とうまく調和して暮らしていくことは、何よりも大事なことである。家族労働によって支えられる職業だからこそ、各々が持てる力を出し合って、一つの家を支え、生まれてくる新しい命を皆で育みながら世代交代が行われていく。核家族化が進み、多世代家族が減っていく中で様々の葛藤を抱えながらも、農家には、それがまだ自然な形として残っている。
 当面、私の役割は夫と二人で農作業をこなし、一家の経営を支えることである。四季の移り変わりを膚で感じながら時をすごし、あったかい自然も厳しい自然もそのままに受け入れながら、作物と共に育っていく自分を静かに見つめていたい。

スケッチつづき 

事務所 白沢吉博 1998.4.24

 今年は平年より気温が高いせいか、月山や近郊の山の雪も解け始めるのが早いようです。4月始めに集中雨があった時には雪解け水と一緒になった水が、加工場近くの赤川に注ぎ、あふれた水が野菜や大麦の畑を2日ほど水に浸れた日がありました。大きな被害がなくて良かったのですが、普通でない気温の高さを感じています。

今のところ暖かい陽気の日がつづいて、追われるように忙しい春作業の毎日です。種まきも終わりハウスでの育苗に入っていますが、今年は温度の高い日が多いので、発芽が順調に進んでいけるのか、根腐れや、葉焼けがおこらないか、苗として元気に育つのかと苗を気遣いながら育てています。

早いところでは、田起こしのトラクタ-が田圃の中を走って作業しているのが見えてきました。田起こしは冬の間、手を加えなかった土を起こして暖かい空気に触れさせ、土を活性化させる重要な作業です。その後は、代掻き作業に進みます。これは水を入れた田圃の中を整地する作業です。これらの作業がすんで、育苗期間を25日間くらい過ぎたころに田植えに入ります。

今年は苗の成長が早く庄内平野では5月5日頃から田植えが始まりそうです。代掻きあとの水を張った田圃が、小さな苗の緑に変わり日々成長し、濃い緑に広がっていきます。稲刈りの9月中旬まで平野一面の緑が気持ちを和ませてくれます。
 この時期においで頂ければ、穀倉地帯庄内の広がりを実感できるでしょう。

 まだエルニ-ニヨの影響がつづいているのか、日本海に異常発生した赤潮が庄内浜近辺にも最近流れてきました。日中、暑かった日の夜中に、海面の温度が下がった頃、浜辺で暗闇の海を見つめていると、白く砕ける波の上に夜光虫が幻想的に舞い現れては消えてゆく。そんな夜光虫の話が海辺の私の町でありました。


庄内協同ファ-ムだより  1998年3月発行 No.40

野鳥に四季を感じて!! 農作業に励む。

小野寺 仁志 1998.3.20

今年の冬は大雪でその分春の訪れがはっきりしているかと思えば、そうではなく不順な天候で冬タイヤを脱いで夏タイヤに替えた自動車が雪がうっすらと積もった路面でスリップし路肩を踏みはずしている光景を見かけることがあります。今年も天候は思わしくなく、冷夏などが懸念されているなか、稲づくり始めの仕事「塩水選」を昨日行ないました。
 ところで私は農業をやりながら季節の変わり目を野鳥の初鳴きや飛来時期で感じて四季の移り変わりを楽しんでいます。
 早春を感じるのは白鳥がシベリアに帰って行くことや身近では雀やムクドリが朝方鳴き初める事です。冬、いっさい鳴かなかった雀やムクドリがなぜか春になると鳴くのです。今年は2月27日平年より数日早い鳴きでした。その後つばめが4月中旬、稲の種まき頃わが家を訪れて産卵、子育てに9月上旬まで励むのです。これは私が小学校頃からの事でもう30年以上も続いていて、このツバメ(わが家に営巣した初代から数えて何代目のツバメなのか?)がなぜか毎年大安の日にわが家にやってくるのです。ですから今年はおそらく4月11日か17日どちらかだと思います。また春作業盛んな頃、田畑ではにぎやかなヒバリの鳴き声が聞かれます。
 初夏を感ずるのはなんと言ってもキジバト、カッコウの初鳴き、6月に入るとまもなく田んぼにゴイサギが訪れ排水されている水田に降り立ち、虫やドジョウを上手に捕まえている光景を見かけます。
 私に秋を感じさせと野鳥はあまりいませんが、強いて言えば雀が収穫間近の稲穂をついばんでいる光景とツバメがわが家から去る時のツバメ達の大群を見る事です。
 冬の到来を感ずる野鳥としては、なんと言ってもシベリアから飛来してくる白鳥、そしてわが家の庭にある木の実と軒先に吊るしてある干し柿を食べに来るツグミ。
  こんな感じで忙しい日々のなか、気持ちにちょっとの余裕を持ち、耳を澄まし景色に目をくばれば、自然はいろんな物を聞かせ、また見せてくれます。
  注意深く観察すれば自然の少ない都会でも結構いろんな野鳥に出会えると思いますので、ぜひお試し下さい。

スケッチ

小野寺美佐子 1998.3.25

 今年も桜が咲く季節になりました。七年前、再発の心配を抱えながら病院を後にした私は私は、桜吹雪舞う公園の中をあてもなくさまよい歩いていました。桜の見事な年でした。花ふぶきに身体が包み込まれてしまうのではないかしらと思うぐらい、花びらが風に舞っていました。あれから七年たちました。 一番気掛かりだった五人の子供達もずいぶん大きくなりました。あの時、子供達の事を考えるとどうしても逝きたくありませんでした。それに私には、やり残した事が沢山ありました。
地元を中心に宅配をやっている私は会員さんの励ましの声にも早く応えたいと思いました。自分を必要としてくれる人のために一日も早く元気になろうと必死でした。 季節は春、もの皆芽吹く時です。蒔いた種が双葉を開いてゆく様に力強さを感じ、勇気が湧いてくるような思いがしました。私の衰えていた生命はこの自然と共に蘇るようでした。そんな思いが私を生き急ぐかのように、地域や行政、農業等の事業の参加に駆り立てました。
様々な人との出会いは視野を広げ、チャンスと試練を与えてくれました。とても濃縮した日々を過ごしていたのですが、この頃もう一度自分を振り返ってみたいと思うようになりました。「私が本当にしたい事は何か、どのように生きてみたいのか、心の底から出る言葉を言ってみたいと思いました。」
年毎に厳しくなる農業情勢は、夢や未来を閉ざしてしまう程、生活も精神も圧迫します。それでも私が生きてみたい世界は、農業の中にあります。土を耕し、作物を育てる仕事は、私の生命を育てると思っています。もう少ししたら、生命ある事を確かめるように、一人で見に行った公園の桜が咲きます。今年は、早朝の静かな公園の桜を夫と二人で見にゆこうと思います。
私に与えられた人生が何年あるか解らないけれど唯一、直系家族である夫と、日溜まりの中で微笑む”爺と婆”を夢みておだやかに生きてゆきたいものだと思います。


庄内協同ファ-ムだより  1998.2月発行 No.39

春作業に

野口吉男 羽黒町 1998.2.20

 今年は、暖冬といわれていたが実際は雪が多かった。ここ10年近く雪下ろしをやった覚えはないが、久しぶりにやった。  汗をかきながらの作業となり、夜には体中が痛くなってしまった。そんな事も無かったように今は、日射しのほうも強くなり、いくらか春が近づいて来るのがわかるようになった。毎日の暮らしは、冬時間のままで(夜遅く、朝も遅い)、早く冬時間を変えなくてはと自分に言い聞かせる毎日である。
 10月より冬の間は、庄内協同ファ-ムの餅製造に関わっており、毎日が餅との格闘ではあるが、こうやって原料(もち米)の生産から製品の出来るまでやれるのも、又、自信を持って餅を出荷できるのも、自分達の加工場を持っているからと思う。もう少しで春作業が始まるわけで、本格的に田圃にでるのは下旬になるが、3月中旬頃より始まる種籾の選別、消毒、浸漬と作業の計画や資材の準備も少しずつ進んでいる。
 もち米は苗作りからスタ-トし、有機質の散布(以前は堆肥で、現在は放線有機=ボカシ)から始まり耕起、代掻き、田植えと忙しい日々となる。植え付けが終わると虫の出番で、田圃全体が白くなるほど虫に(ドロオイ虫)葉を食べられる。回りの田は、田植え前に苗箱に薬の処理をするのできれいなままで、よけいに白く目立つ。そのため、田の見回りをする時は目をつぶってとなる。あとは天気まかせで梅雨の時期が早く終わるのを待つだけで、梅雨が遅れると生育に特に大きく影響する。
 除草剤も良くない事はわかっているけれども、何かいい方法がないかと考えてはいるが、もう少しの間使わなければならないのかなと思っている。暑い時期の除草機押しや手で田圃をはって草を取る作業の大変さを身を持って覚えているから……。
 私の住んでいる所はもち米作りにあっているのか、病気はあまり出ないが、それでも秋になって稔った稲を見てやっと安心する。1年に1度しか収穫出来ないので、これからも1作1作大切に作って行きたいと思う。農業の置かれている状況は大変厳しいけれども、人が生きている限り食糧は必要なわけで安心してもらえるもの、安全なものを作り続けて行きたい。
 村の活気が失われてきて、皆と顔を合わせるのも朝晩になってしまい、農作業の方法も手抜きが進んでいる。収穫を素直に喜べないこんな時代がいつまで続くのかと思うと、すくいようのない気分になる時もある。本当の豊かさがわかる時代が早く来る事を願っている。

農業日誌 「我が家の屑米と白鳥」

五十嵐良一 鶴岡市 2.20

 子供達の成長や家族での一年一年の出来事が、めぐる季節やまわりの自然風景の中に、ひとつひとつきざみこまれてゆくような気がします。それが慌ただしく繰り返される作業の合間に、何かのきっかけで、ふっと呼び起こされ、再びその時の若さや甘さを思い出し、味わう事があります。
 先日(2月11日)三日がかりでやっと終えたメロンン床土の蒸気消毒。煙で涙目でしょぼくれたビニ-ルハウスの私の耳に「クオ、クオッ」と白鳥の鳴き声。「あっ、もう北帰行? まだなはず…!」外は吹雪なのに、春を感じさせながら十年程前の我が家の白鳥事件を思い出しました。
 昨年、11月に四国の消費者グル-プの方々が来庄した時、車を止め。「ウァ-、白鳥って田圃にもおりるんですか?」「歩いて餌も採るんですね。」と冠雪した月山を背景にカメラでパチリ。それ程までに増えた白鳥は、隣市(酒田市)の最上川河口で、30年位前に地元の中学生の観察がきっかけとなり「白鳥を愛する会」の餌づけで、今では7000羽余りが飛来しています。近年は、こぼれた籾を求めついばむ白い群が庄内平野のあちこちに降り立ち、圃場にとけこみ雪に覆われるまで私達の目をなごませます。
 そんな鳥達に冬場になれば餌づけの餌が足りなくなるという事で、我が家では長男がもの心ついた頃から残った屑米や格納掃除した機械類から出る籾等を餌として届けました。
 毎年、軽ワゴン車に100㎏程の屑米と一緒の子供が、一人から二人そして四人になった頃は、年中行事の様になり、20㎞程の道すがら、お米の話しやオオハクチョウの事を語るだけで喜ぶ子供と、私の姿がありました。そしてお礼の絵入りの賀状が正月の話題になるものでした。
そんな楽しみのある白鳥見学に長男が、”頑”として「行かない。」と言い張ったのはいつの頃だったろうか。
 海風の冷たい土手から歩いて、下の娘達が白鳥をながめている間、ぬかるんだ河川敷の小さなプレハブの控所まで、小分けにした屑米を背負わせ、ノ-トに住所氏名を記入した時。「父ちゃん、白鳥ってカステラも食うのか?」見ると屑米や茶ガラばかりではなく、パンの耳やせんべいの割れたもの、そして廃棄されそうな菓子類もありました。
 「冬場は餌、足りないってTVでも言ってたから、あっちこっち願って集めたなだろう。」「ふう-ん。白鳥って人よりぜいたくだなぁ。」そして「こげだ(こんな)屑米、うめえと思って食うなだがのぉ。」ライスグレ-ダ-から落ちた屑米も乾燥機からの残り籾も、精米機を全開にして、ワラクズやゴミをきれいに飛ばしたものだったが、そんな会話を息子とした4年生の翌年頃から、なだめすかして誘っても行かなくなり、姉妹達も「お兄ちゃん、白鳥さ行くと、あったこい、コンニャク食べられっさけ!」と頼み込んでも逃げまわり、果ては母親に説教され、座敷の戸袋に隠れ大騒ぎになりました。
 近頃はTVでも餌不足は放映されなくなり、大きな白鳥のレリ-フが作られスワンパ-クとして整備された河川敷には、下の娘達にも3年前からは誘えなくなりました。 昨秋は、ほんの少しの屑米で、砂丘の黒松林を行きました。

スケッチ

芳賀和子 三川町 1998. 2.21

ファ-ムの女性メンバ-8名がドイツ、イタリアの農業研修旅行に行った時のスケッチ。連載は今回で終ります。

イタリア訪問記

 ロ-マの中心街からバスで1時間も走るとなだらかな丘陵地が続き、牧草地やオリ-ブ畑の田園風景が広がる。
私達のファ-ムスティ先であるマルツッ-ノホテルは湖の近くの大きな牧場の中にあった。
牛や馬、ヤギ、羊を飼っている酪農家であり、ファ-ムハウスも経営している。始めは馬で縦断する人達にたのまれて宿を提供した事から、一人二人と泊まり客が増え、いっそホテルにと牛小屋を改造し今となっている。
牛小屋だったとは、とても思われないセンスの良い飾り棚、絵や彫刻が飾られている食堂でゆっくりとパスタやワインを楽しんだ。二階の寝室もべットカバ-がかわいい屋根裏風の部屋で、テ-ブルの上にはかごいっぱいの果物や手巻きの歓迎のメッセ-ジが添えてあり、もてなしの心がいき届いていると感じた。あいにくの雨で乗馬も散策も出来なかったのが残念だった。

 共同経営者のアルフレッドさんに近くの農家を案内してもらう。オリ-ブ農家、窓ガラスをたたくような大雨で説明もバスの中だ。なんと270年以上も前に植え付けられたオリ-ブ畑が100ha、1300本もあるという。この農家の10分の1の面積だ。古木のためキカイが使えず収穫は手で摘み取らなければならないが、とても上質のオリ-ブオイルがとれるのだそうだ。木の間に牛を放牧し、化学肥料を使わない、防虫のための農薬も使わないと言う。永い歴史の中で風土にあった作物なのだろう。 前の日に訪れたイタリア農林省の方々の「品質の良さとは(これはワインのためのぶどうの時の話なのだが)化学肥料をなるべく使わず、健康に良い物という意味です」とはっきりいった言葉を思い出す。

オリ-ブ油の加工場

単純圧搾法で絞られ、遠心分離器で水と油に分ける。機械の前では、赤い花柄のエプロンを身に着けたおばあちゃんが、緑色のオイルを大きなビンに受け取り、あふれないように見ていた。80才は越えると思われるがオリ-ブ畑の仕事を手伝っているせいか肌の色がとてもいい。家族総出の作業は失業率が高く学校を出ても中々仕事につけない息子さんや娘さんに仕事として受け入れられていた。ドイツに向かう早朝、空には星が輝き、今日の良い天気を約束していた。
 もうすぐ3月、記録的な大雪も溶け田畑が見えて来た。もうすぐ稲の春作業も始まる。あの「品質の良いもの」の生産を目指し、励もうと思っている。


庄内協同ファ-ムだより 1998.1月発行 No.38

自然農業に新年の夢託して

志藤正一 藤島町 1998.1.20

 正月気分も抜けきらない1月11日、菜の花温泉でんでんを会場に、自然農業の山形県交流会が開催された。県内を始め遠く秋田、宮城からの参加者を加え20名ほどの人達が、去年の成果やうまくいかなかった苦労話に花を咲かせた。我が庄内協同ファ-ムからも6名が参加した。

 「自然農業」は韓国の自然農業協会、趙漢珪先生が5年ほど前から日本で普及されている農業のやり方で、”自然の摂理に基き、自然の力を活かす”事を基本に作物や家畜を育てる。竹林や、広葉樹林に住む土着の微生物を採取、拡大しての土作りから始まり、購入した肥料や農薬には出来るだけ頼らず身近にあるものを利用して自分で作る。微生物の力を借りて作った植物のエキス(天恵緑汁、漢方栄養剤、玄米酢等)の散布で活力のある作物を育てる。またオガコや、地元の土、塩などを土着菌で発酵させた豚舎での自然養豚は臭いも殆どなく、糞も尿も全く豚舎の外に出さない。1年をとうして鶏舎の隅々にまで日が当たる設計の自然鶏舎等ユニ-クで魅力に富んだ農業だ。又、この自然農業の勉強をする基本講習会も変わっている。5泊6日の講習中は1日2回切りの食事を挟んで、朝9時から夜11時前後まで休みなし。

 地元韓国でも日本でも、自然農業ですばらしい作物や成果を上げている方がいる反面、私を含めてなかなか思うようにいかずに悩んでいる人も多い。何故かと言えば、自然農業は一般の農法と違いマニアルがない。あるのは土着菌の採取の仕方や天恵緑汁の作り方、豚舎や鶏舎の設計ぐらいのものだ。

 夜、酒が入っての交流会では「自然農業が成功するまで俺の体力がもつだろうか」とか「40aの田圃のヒエ取りにひと夏かかったよ」等のぼやきがあちこちから聞こえてくる。しかし、不思議なことに「もうやめようか」という声は聞こえてこない。失敗談を明るく笑い飛ばして「今年はどうしたらうまくイグベ」という話になってしまうのは、作物が人間の思っているようになるものという考え離れ、作物の横に立って、どう育とうとしているのかをじっくりと観察する気楽さというか楽しさを共有しているからなのだろう。

 「自然農業」では作物が欲しいときに欲しい養分を吸える土作りと、それぞれの作物の栄養周期を知り、その年の天候に合わせて作物が今何をしてほしいかを見極めることが必要だ。大変ではあるがここがたまらない魅力でもある。
 地域の交流はやがて地域に適応した新しいマニアルを生む事になると思う。私が今年実施した稲の半不耕起2回代掻による、無農薬栽培は30aでほぼ思いどうりの成果をだした。(もう一枚の田圃は失敗に終わったが!!)解っていることとはいえ、近代農法から、農薬や化学肥料を引き揚げた作物は惨めである。
 減農薬栽培を志したものの、虫食いだらけの野菜やイモチで一面赤くなった田圃を眺める農家はもっと惨めである。農薬に頼らない栽培のためには、種子の確保から始まるそれなりの栽培の体系や技術を農家自身の手によって獲得しなければならない。

「自然農業」がその道であることを信じ、「今年もガンバンベ」と7月の再会を約束して交流会は終わった。

農業日誌 「干し大根の収穫作業」

五十嵐良一 鶴岡市 1.24

 「今年の は、割合長くて太いし、干し大根束ねるのだば丁度いいんでないか?」「んだの!はえぬきの藁は短くて硬いし、仕事しにくいから、ひとめぼれの藁にしたなや。」 「ん-。手ざわりのいい藁だの!」 干し大根を束ねる藁は9月末頃とります。コンバインで刈ったものを切らずに落とし、束ねてまとめ乾燥させます。それを、すぐって(藁の葉の部分をそそぎ落とし、茎の部分にする事)まとめておきます。田ですぐった時の手が、若い頃の藁細工仕事を思い出させたのか、そんな父との会話の中でも一年の米作りを思いかえさせられます。米の収穫調整出荷も終え、月山や鳥海山の白さが気になり、風も北西から強く冷たく感じると、いぶしたくあん用の干し大根の収穫を始めます。昨年は、9月中下旬に雨が続き少し細目だったが、「あんまり太いより、250gパックには干して漬け込んでもこの位の太さがベストだ!」そういう妻だったが、「もう少し太くなるんじゃないか」と天気に期待をかけて収穫最盛期に入ったのは、彼女がヨ-ロッパ研修旅行に出かけた11月のなかばだった。

 5㎞ほどある畑から軽トラに毎日1台位、7日程で取り終え本格的ないぶしや漬け込みに入ったのは12月の声をきく頃でした。 ひとりでの作業は、はかどらず、近年急激に減った大根の作付けは周囲にも人をなくし、私をあきさせます。
20aの干し大根を1本づつ引き抜き下葉を少し取り除き、太さ、長さを揃えて並べて後、2本づつ藁で束ねて洗い、家に持ち帰り四段にしたはざにかけ、強い冷たい風を待ちます。
 大根を束ねる藁は両手で一握り位の束にして腰にゆわえ、2~4本位で葉の部分をピシッと強く締めつけ、干しても落ちない様にします。そんなひとめぼれのワラを見ながら、あきてきた体で米作りの1年を思いかえしたりします。
このワラをとったあそこの田は、砂気が強いから近所のGさんからもらったモミガラ発酵ケイフンをやった所で、肥効が遅くなり、その分少し丈があり、前の年の短かすぎた、はえぬきより、収量もあったし、藁もいい。病気も少なく、きれいにすぐったしなやかな藁は2、3本で手際良く作業がはかどる。
 ササニシキだと、そこそこ長さはあるのだが、細くて病気(イモチ)の多い年は、藁の節が黒くなりポリポリして力を入れて束ねると、5~6本でもちぎれて面倒でやりきれない。
でわのもちの藁だと、太いには太いのだが、少しもろさがありかさばった感触で仕事がやりづらい。
雪の降る前の砂丘の畑で、大根の収穫を終えるまでそんな事を考えながら、稲の姿を思いかえし、藁の硬さとしなやかさ、太さや長さや節の位置、その手ざわりを五感の中にしまいこみ、春の来るのを待ちます。

スケッチ

菅原すみ   三川町  1998. 1.16

ファ-ムの女性メンバ-8名がドイツ、イタリアの農業研修旅行に行った時のスケッチ
1997年11月19日~28日まで

       

ドイツキッペンハウゼン村・フランク家にて

 遠足の日に興奮して眠れない子供のように1時間おき位に目がさめた。自分の為だけに1日中、時間を費やせると思うだけで嬉しい。7時だというのに外はまだ暗く、村の朝は静かだった。Mrs.フランクの用意してくれたコ-ヒ-の香りで眠気も引き、暖かい朝食をゆっくり頂いた。娘さんのシビレさん(25才)は大学卒業後、近くの UcLAのような所で働いている。ドイツ語のわからない私達は英語を話すシビレさんを介して何とか話すことが出来た。

 息子さんは農学部の大学生、3年後、後を継ぐ為に帰ってくる予定だと言う。経営内容は、りんご、ぶどう、さくらんぼなど果樹6ha、9月~10月の収穫期にはポ-ランド人を雇い入れ、ワイン、シュナップス(りんごの焼酎)を作り販売している。地下室に保存してあるのを試飲させて貰った。収入のほとんどは農業部門からでベッド数12ほどの民宿収入は、ほんの副業程度で、以前は酪農家だったが、乳価の値下がり、生産調整があり、村の復興をかけたグリ-ンツ-リズム政策の助成金により民宿に切り換えたことによって、冬季間は、暖かい所に休暇に出かける時間的ゆとりが持てるようになった。
8時近く、小学生が集団で登校して行った。授業は昼で終わり、昼食は家庭で食べ、スポ-ツジムに行く子、塾に行く子、自宅にいる子とそれぞれの選択肢で午後を過ごす。日本のように画一化されてはいないが、小学5年という早い時期に将来へ進む道を判断するのだという。大学、実科学校(看護婦、幼稚園の先生等)、技術職(マイスタ-資格)を得る道とに別れて行く。教育費は国が負担し、親の負担はほとんどない。

 9時、村長さんの案内で村の散策に出かける。木造りの柱に白壁が映えて統一された村の景観に完成された大人の国を感じた。落ち着いた村の空気が急に騒がしくなった。派手な服装の若い亡命者数人が家から出て来て私達に声をかけた。「気をつけるように」村長さんは静かに言い、ドイツ連邦政府が国策で受け入れている亡命者達が、この村にも配され、労働が許可されていない彼らの行動が村の風紀を乱し、問題になっているという。

 ドイツの失業率は17~18%、亡命者まで就労の補償は出来ないのだと言う。樺太の緯度にある南ドイツ、バイエルン地方、凍えるような外から夕方帰って来ると薪が原料のセントラルヒ-ティングで暖かかった。「人間は自然を必要とするが、自然は人間を必要としない」というドイツの人達らしく徹底して自然を大切にし、ゴミを出さない暮らしをしていた。自炊用に持って行った、おかゆのレトルト袋、カップラ-メン、はし….。私達のゴミをフランクさんに詫びながら、日本の食べもの、農業の姿などを話した。もう明日は帰る日、シュナップスで暖まりベッドに入る。

 日本に向かう機上から眺めた初冬のドイツ….「ゆううつな季節」と通訳の酒枝さんが言っていたように、もやがたちこめ、灰色の重たい空に、モミの木が天をつくように枝を広げている。ビ-トルズの「ノルウエ-の森」のメロディが聞こえてくるようだ。

 りんごの花咲く頃か実をつける季節に、きっとまた訪ねてこよう。こつこつと時間とお金を蓄え、自分達なりの暮らしを夫と共に作りあげる。その日まで、さようならヨ-ロッパ。


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