庄内協同ファ-ムだより 2001年5月 発行 No.75
いま新たなスタートラインに立っている
4月中旬頃鶴岡公園の桜の開花も一気に進み、葉桜になってしまった夜、花見を兼ねた「ミ ニゼミ」が開かれた。
テーマは「環境問題の解決に果たす市民運動の役割」(水俣病の問題を 中心として)」というタイトルで、現在岩手大学大学院連合農学研究科の学生から発表しても らった。アグリフォーラム鶴岡の会員、山形大学農学部の先生と学生、団体職員あわせて2 0名の参加者で行われた。
食べ物を食べる人がいる限り農家は必要とされるんだという前提が今崩れようとしている。中国では、日本にいて想像も出来ないほどの規模の野菜が日本向けに作付けされているというし、韓国からも有機農産物の輸出の準備が着々と進んでいるという。遅かれ早かれ数年後には日本に輸入野菜が溢れる事になる。
日本農民が、かつて味わった事のない大きな変化が待ち受けている。 日本の経済はいまだに回復せずにいるし、まだ何年も回復できないだろうという人もいる。しかしそのほとんどの原因に絡んでいるのは日本人自身なのだ。 ユニクロが輸入農産物、輸入食品の販売に手を出すそうだ。農産物の開発輸入は商社の仕事だし、経済自体をここまで疲弊させたのも日本人自身がやったことだ。
自分で首を絞めてきたのだ。出口なんかあるわけがないし、とうとうここまで来てしまった。農家は農家でどうしたら生き残れるか必死で考えなければならなくなっている。
そんな中、全国津々浦々で直売所が元気だ。そこに集まる農家の顔は活気に満ちている。そこには3つの理由があるようだ。新鮮で、安く、顔が見える関係。この3つ、これは究極のセールスポイントなのだ。まさに庄内協同ファームが目指した当初の産直の理念がそこにはあるようだ。そこにもう1つ安心安全のキーワードを付け加えていこうとするのが庄内協同ファームの今の方向であり、ますます元気の出る産直提携を目指していこうと思っている。
そこで生協や宅配システムなどの流通にただ頼るのではなく積極的に商品を魅力あるものにする努力をするべきなのだと思い、認証取得に向かい組合員の努力により有機認証を取る事もできたし、有機栽培に向かっての技術はいまだに脆弱な段階でしかないけれども、ほんの少しの進展があった。まさにここに道は示されているのだと思う。 もっとも困難な道に見えるが、時代とともに食べ物に求められる価値は変わる。農家としては楽しい話ではないがその求められる価値がどんなに変わろうともその素材の価値を生み出せるのは農家以外にないのだ。流通でも国でもない。 自分たちの新しい工場がいま目の前にある。どうしようが自分たちの思うがままだ。
全て自分たちの責任の中にある。しかし自分たちだけで何かができるわけではない。庄内協同ファームは、いかに地域の人たちを巻き込んでいけるかにかかってくると今更ながら考えている。地元の農協も町も一緒になって庄内協同ファームと消費者を含んで、ここ庄内の地域をおこがましくも何とか楽しいものにしたいと微力を持ってスタートラインに着いている。これからもより一層の産直提携をお願いします。
農業初心者、三年目にして思う事
今年4月から、ついにというべきか、とうとうというべきか、我が家に就農することになりました。4年間の大学生活を北海道で過ごし、農業の勉強と称して、長野の八ヶ岳にある農業の学校でも1年間過ごさせてもらいました。 この5年間で農業技術を習得出来たかというと、答えは限りなくNoに近く、サークル活動や趣味、友達づくりに励み、どちらかといえば、就農までのモラトリアムのような存在でした。
でも、この一見我が家の農業経営にはなんら関係なさそうな時間のなかで、私はたくさんの農業に夢を持った人たちに出会い、様々な考え方を知り、後を継がなくてはならないという、狭く重荷であった農業という存在が、無限の可能性が広がっている世界だったのだとあらためて感じることが出来ました。家を継がなければならず、自分に職業選択の自由がないことが、いやでいやでたまらなかったけれど、非農家で農業を目指している友達に、「のりちゃんは土地もハウスも機械もみんな揃っていて、うらやましいなあ」といわれ、農業をやりたい人間が農家の生まれということは、実はすごくラッキーなことでは!?と思えたことは、かなり目からウロコでした。
だから、遊んでばっかりいたことも一応役には立ってるんだと思うよ、父さん。(いいわけ) 完全なる田園生活を始めて、まだ数ヶ月ですが、全然悪くないなあと今は思っているところです。蛙やイモリを捕まえたり、ヨモギを摘んでだんごをつくったり、畦道に生える桑の実を集めたり、カラスに植えたばかりの苗が引っこ抜かれたといってはくやしがったり、晴れた日には田んぼを渡る風に吹かれ、流れていく雲を眺めたり、そんな農業のもつ時間の流れや、自然の変化が優しくて、面白くて、楽しいです。
今年、5月に祖父が亡くなりました。私に最もプレッシャーをかけ、そして、私が就農することを最も待ち望んでいたのが祖父でした。祖父が倒れた時には、もう手遅れなほどにガンがひろがり、日ごとに悪化していくのがわかりました。痛み止めのモルヒネの量がどんどん多くなり、だんだんと意識が朦朧としていくなかで、祖父は枕もとに私を呼び、はっきりとこう言いました。「紀子、夢を持で。夢を持たなくなったら農業はつぶれる」と。祖父は私に、最期の最後に一番大切なことを教えてくれました。農業で生活を支えていくということは、簡単なことではないです。農産物の価格は決して高いとは言えないし、市場や天候に常に左右され、輸入農産物にも押され気味です。どんな時代でも、農業はいつも厳しい状況にあったんだけれど、そんな中で、曽祖父は田んぼの開拓に、祖父は酪農に、そして、父たちはこの庄内協同ファームという加工、産直組織に夢を託してきたんだと思います。
さて、私はこれからどんな夢に向かっていこうかなあ。今、ぼんやりと考えているのは、観光農園です。農作物と作っている人と田舎の自然を一緒に味わえるような、自分や自分の周りの人たち、地域の人、都会の人、みんながゆったりと雲を眺め、風に吹かれ、幸せな気持ちになって帰っていけるような、そんな場所を創りたいです。ウ~ン頑張るぞー とりあえず、明日から早起きすることからはじめます。ハイ。
農業初心者、三年目にして思う事
早いもので就農して三年目に突入してしまいました。本当に周りの人たちに助けられっぱなしの二年間でした。就農当初はまったく何もわからず頭だけで物事を考えていて脳みそがパンクしていましたが、最近では何となく流れがつかめてきて頭を使わない日々が続いています。 このままではボケるかもと思うのですが、逆に頭を使わないでいると様々なものが直接心に入ってくるような気もします。
やわらかな土の香り、畦に咲く色とりどりの花々、暖かい陽光・・・。 夕暮れ時は、しばしの間仕事の手を休めて空を仰ぐ幸せタイム。こんなことばかりしていると、田んぼではヒエがグングン育ち、畑では虫たちがバリバリとブロッコリーの葉っぱを食べていたりしていて、それでまた仕事に追われてしまうのですが、それもしょうがありません。 農業技術についても周りの人達に教えてもらう事が多いです。肥料のやり方ひとつにしても一塊で施したり全面に散布したり、施す時期や肥料の種類などなど様々なことが絡み合ってその作物に一番合うやり方ができていて、実験と失敗を繰り返し道筋を作ってきた先輩農家達の努力に『こりゃー凄いなー』と感服するばかりです。
自分も作物を観察してどの肥料をどれだけほしがっているのかわかるように、作物と話せる農家になりたいものです。 ところで、就農するとき一つ自分で決めたことがあったのですが、最近それを忘れがちになってしまいました。それは、『金を稼ぐためだけの農業はしない』ということだったのですが、お金大好きの私としては私欲物欲に走ってしまいやすいので、野菜が金に見えてきがちでした。当然お金は必要だし大切なものであることはわかっています。しかし、その先で何が出来るかということを常に考えていたいし、少しでも実行に移すようにしていこうと思っています。
この前、幼稚園の園児たちが我が家の田んぼで田植えをしました。泥の中に素足を突っ込んだ園児たちはキャッキャッと楽しそうにはしゃいでいて野生のサルのようでした。見ている自分も楽しくなって、教える側だったはずが教えることなど何も出来ずに逆に多くのことを教えられた気がしました。 何年先になるかわかりませんが、将来は農業の喜びを分かち合える仲間たちと農業共同体のようなものを作ってみたいと思っています。農業と日々の暮らしがそのままで芸術であるような、自給自足をしながらも外に向かって大きく開いているような、そんな共同体が夢です。
6年目に入って…
2001年6月、庄内協同ファ-ムが引っ越して間もなくした頃、いつも通り昼休みをしていたら従業員の人に「司君今年で6年目だのー」と言われ、そうかもう5年も経ったのかーと思ったのと同時に、今までの事、そしてこれからの事を考えていた。 高校を卒業と同時に庄内協同ファームに勤めて今年の4月で6年目に入った。高校の授業の中でパソコンの授業が多く、また農業高校だった為、農業の授業もすること があり、高校3年の就職活動では、この2つの勉強が生かせる仕事がないかと探していました。
そんな中ちょうど庄内協同ファームを知り、受験したところ採用され現在にいたっています。 仕事の内容としては、県外との取引を多くしている為、荷造りをして宅急便で送る発送作業や規格書などを作成する営業的な仕事を主にしていますが、今の時期人手が少ない為、時には製造に入る事もあります。
庄内協同ファームの取引先は遠い為、なかなか消費者の方々とあまり交流する機会が少ないのですが、数年前、東京の生協さんに1週間、名古屋の生協さんに1週間と研修に行く機会があり、その研修の中で配送員の方と一緒に、配送の車に乗って実際に消費者の方々に商品を届けるという経験をする事ができました。その時1人の消費者の方と話ができ、話をしたところ「商品が届くのをすごく楽しみにしているのよー」と笑顔で答えてくれました。
思い出すと庄内協同ファームに入った時、組合員の人達からよく聞かされたのが「顔の見える関係をずっと作ってきたし、これからも作っていきたいなやのー」と言われ最初は何を言っているのかわからなかったけれど、その時初めて、組合員の人達に聞かされた話の内容が理解出来たのと同時に、大切なことだと思いました。今でもその消費者の方との会話をはっきり想い出す事が出来ます。
庄内協同ファームは、餅の加工が中心なので年末にはたくさんの従業員の人達が働きにきます。中には12月だけしかこない人もいます。そうした人たちとは今までは、その時だけの付き合いや、話をしたことのない従業員の人がほとんどでした。しかし、これからはそういう人達といろいろな話をして、いい関係を作りたいです。また従業員だけといい関係を作るのではなく、原料を作っている生産者の人とも、もっともっと話をして関係を今より深めていきたいです。
そして庄内協同ファームの中でもいい関係を作り、その仲間たちと共に協力して消費者の方々に安全でおいしい農産物、加工品を届けたいと思います。 6年目に入り責任ある仕事も増え、新しい仕事に気をとられ日々の仕事が雑になりそうな時もありますが、そんな時はあの消費者の方の「商品が届くのをすごく楽しみにしているのよー」と言ってくれたあの笑顔を想い出し、これからも荷造りや、規格書の作成、もちの製造を続けていきたいです。
]
夢を持ちたい
小さい頃、私は農業が嫌いだった。中学くらいまで農業の手伝いをしていたが、休みの日など友達が遊んでいるときに限って手伝わされたのが嫌で、大人になったら絶対農業はやらないと決め込んでいた。当然のことながら、進路は農業ではないものを選んだ。私が選んだのは水産業。何故それを選んだのかは割愛させてもらうが、私は故郷を離れ、鹿児島で真珠養殖をやっていた。しかし、そこの会社が倒産して、私は故郷へ帰ることとなった。
故郷に帰ってきて10ヶ月ほどぶらぶらしていた。仕事もそれほど真剣には探してはいなかった。ある日職安に行ったら、庄内協同ファームの採用案内があった。自分の家の近くにそんなところがあるとは思いもしなかった。なんとなく気にはなったが、もっと条件のいい仕事があるだろうと思って決断までは至らなかった。そうこうしているうちに、実家での肩身も狭くなって、働かない事にはどうにもならなくなった。職安に行って相談してみると庄内協同ファームを紹介された。私はそこを受けてみようと思い、そして採用された。 なぜ嫌いな農業にかかわる仕事をしようとしたか。それは農業に関わるのが運命なのではないかと思うようになったからだ。
私は夢を持っていない。農業が嫌いで選んだ水産業ももうする気はなかった。夢を持っていないと仕事を探そうとしても何を探せばいいのかわからなくなる。となると、自分が今まで生きてきた中で関わってきたものから探すしかなくなる。私の家は農家なので、農業に関わる仕事をすれば、何か道が開け、新たな夢も見つかるのではないかと思ったのだ。農業の知識は、農家ではない人よりは少し分かる程度でお世辞にもあるとはいえないが、今から勉強すればなんとかなるだろうと腹をくくったのだ。
私の庄内協同ファームでの仕事は、ファーム内での製造を円滑に進められるように段取りをする事だ。しかし、実際は私の力不足で円滑には進められていない。だからいつもドタバタしてしまう。最近は仕事に追われて自分で何をやっているのかわからないときもあるのだが、何とか頑張っている。 組合員の中の息子に私の高校時代の後輩がいるのだが、彼は農業をやっていて農業が面白いという。自分と同じ世代で農業が面白いという人に今まで会ったことがなかったからかもしれないが、私は彼を羨ましく思った。この庄内協同ファームには他にも農業に夢を持っている人がたくさんいる。私はここでの仕事を通して自分にも農業の夢が芽生えればいいと思っている。
スケッチ ~120羽の必殺仕事人~
6月に入って一段と緑が濃くなった。田植えが終わって1ヶ月あまり、成長した稲の苗は草丈が30センチをこしただろうか、株間に見えていた水面も葉に覆われ一面の青田に変わっている。さて、今年5年前一度挑戦して失敗に終わった合鴨農法に取り組んでいる。ひとつはこの農法が有機米作りでは一番定着していることと、完璧に害虫を食べてくれるというメリットがあることだ。
年々増えてきているイネミヅゾウムシに頭を抱えていた夫は、「除草は私も手伝うから」という言葉に決心したようだった。 5月26日九州で生まれてすぐ、舟形まで空輸され第一農場で育てられたかわいい14日雛が我が家に着いた。雛が小さかったので早速ビニールハウスの中に部屋を作り餌付けと外気温に馴らすことにした。5日ほどそこで過ごした合鴨を網とてぐすを張り巡らした圃場に連れて行き放した。
ところが合鴨は水鳥なのに溺れてしまい、体から油が出ず毛づくろい出来ず弱って瀕死の状態の物がでて大騒ぎ。その鴨たちを圃場から引き揚げタオルで体を拭き、毛布に包んで温めること3時間。 すっかり元気になり、用意した桶の中で早速水泳ぎの練習を始める鴨もいて、その様子を見ていた夫も私もまるで親にでもなったつもりでついつい時間を忘れて見入ってしまうほど。 2,3日するとすっかり泳ぎもマスターした合鴨を再び圃場に連れて行き一羽一羽に「しっかり仕事をするんだよ」と言い聞かせて放すと、すぐ前の群れの中に入って行った。でも圃場では空からの外敵カラス、トンビに狙われ20羽ぐらいは餌食になってしまった。
なかなか外敵を現行犯逮捕も出来ず、見せしめのためにクローンカラスを吊り下げたり、てぐすを細かく張ったりしたものの、かわいそうなことをしたと思う。
私はこの農法で期待したことが2つある。害虫を食べてくれることと草取りをしてくれること。1つ目は完璧だったが2つ目の除草は私の考えが甘かったことがすぐ結果となって出てしまった。外敵に狙らわれ怖い目をした合鴨は群れを成してしまい、なかなか分散しないためヒエがみるみる大きくなり、彼らの手に負えなくなってしまった。最初に放す時「あなたがちゃんと言い聞かせて放さないから仕事怠慢でダメだ」と夫に文句は言ったものの、このまま見過ごすわけにも行かず、意を決して田んぼの中でマージャンをすることにした。
(庄内では田の中を這うという)草取りのため片道(距離として60メートル)1時間半の腰を曲げての除草作業は腰から火が出るくらい(庄内では、ものすごく痛いことを言う)辛い仕事である。
彼らも草のあるところは泳ぎ悪いとみえて、私が草取りをした後をガアガア(これは私に対してお疲れさんと言っているように)鳴きながらついてくる様子は可愛いけれど「しっかり仕事してよ」ついつい独り言をいってしまう。とにかく 草取りももう少し。これを教訓に来年はしっかり合鴨を調教し、除草の仕事は彼らをメインに私達がお手伝いというようになればいいなと思っている。7月に入るとそろそろ梅雨も明け、本格的な夏の到来である。春から好天に恵まれ農作物も順調に育ちまずまずの収量が望めそうだ。 より安全で、よりおいしい物を追求していく庄内協同ファームの新たな出発の年でもある。
・・・・・・・竣工記念メッセ-ジ
庄内協同ファームが藤島町にやってきた
これは私にとって、気楽な脇役から一転して主役に抜擢されたような気分である。 これからは何かにつけ、藤島町か?ファームとの接点になる、そう思うと藤島住民の私としては何か身の引きしまる思いがしてしまう。今年は我が家の三人の息子たちの新たな出発の年でもあった。私たちもそれに負けじと新しいスタートラインに立って子供たちへのエールよりも、さらに大きなエールを自分自身に送りつつ、この新拠点から大きく羽ばたきたい。
藤島町のみなさん、どうぞよろしく!!
楽しくおもしろくワイワイと
先日息子の友人が援農にやって来た。東京生まれの百姓志願だという。最近時々そういう若者に出くわす。ともすれば元気を失いがちな現場で、そんな新鮮なハートでひたすらな思いを語られると、もう君の瞳に完敗。
がむしゃらにこれまで私も頑張ってきたけれど、忘れていた百姓が元気な頃に戻ったようで何ともいえない良い気分になった。土を耕す現場では証書や肩書きよりもアイデアと前向きな姿勢が一番だ。我々が食べ物を作る。食べ物は人を作り、人が文化を創ってきた。いわば百姓は、ほとんど表にでることはないが、実は社会の末端までを動かしている血液みたいなもので生きる為には、絶対に必要なものだ。
百姓に多様な価値観を持った若者が多くなってきたことは実に嬉しいことだ。外圧が強く、揺れている今だからこそ内圧を高めるべく個々のエネルギーを高めこの若者達を失望させないよう温かく見守ってやりたいものだ。
楽しくおもしろくワイワイとやりましょう。 日本の未来も捨てたもんじゃないかも?
いくら無農薬の米作り、とはいえ
我が家の労力を考えると合鴨農法はムリ。そんな我が家でも出来そうな紙マルチ農法に今年は挑戦した。三反歩の田植えに4時間ほどかかったが、除草の効果は期待できそうだ。あれから一月ほど経ち、緑が一層濃くなった田んぼを眺めながら、今日私は、地元の小学校の一日先生。 担当は美術(図工)。絵を教えるというよりは、絵を描く楽しさを教えられたらと思っている。目を輝かせ、出来上った作品に歓声を上げる子供達に愛しさを感じながら軽トラでの帰り道、緑の田んぼに庄内協同ファームの新しいスタートを思う。
私達の宝物
2月の吹雪く季節になると、6~7人のメンバ-は公民館に集まり、就農と同時に減反政策でリストラに遭った自分達のこれから生きていく道を探る合宿を重ねていた。私はいつも賄婦。悶々としているメンバ-のひとときの気分転換になっていただろうか。
あれから26年。身の丈に余る新拠点の竣工式を迎えようとしている。お祝いに駆けつけて下さる方々に食べて頂くごちそうを考え、賄の準備をしている傍らには一緒に歩んできた仲間達がいる。 そして、振り向けば親の背中をみつめている庄内協同ファ-ムの子供達。ファ-ムの若い職員達と共にキラリと輝く真珠のように育った。
私達の自慢する宝物、後継者達。親と同じ道を歩んでいたり、それぞれが選んだ道に進んでいたりしながらも何らかの形でファ-ムに関わっている。
さあ、みんなでもうひと頑張りしよう。いぶし銀のシルバ-を目指して。
何にも勝る『裕子ブランド』
今、トップブランド『エルメス』の銀座店がオープンしたそうで、1個何十万もしそうなバッグや靴を買う人で長い行列ができているとか。 我が家のトップブランドの野菜たちも、家の裏の畑で、春先から、ほうれん草、春菊、小松菜、チンゲン菜、いちご、などが終わりに近づき、今は白菜、キャベツ、さやいんげん、大根、きゅうり、が採れ始め、もうすぐナスやトマト、みょうがが食べ頃になります。今年から新顔のにがうりも盛夏の頃には食卓に上り始めるでしょう。 自分で種を播き、毎日成長を楽しみながら、手をかけ、やがて収穫をし、食卓にのせる。それがとても嬉しくて、何にも勝る『裕子ブランド』です。
庄内協同ファ-ムだより 2001年5月 発行 No.74
楽しい農業を目指して
4月中旬頃鶴岡公園の桜の開花も一気に進み、葉桜になってしまった夜、花見を兼ねた「ミ ニゼミ」が開かれた。
テーマは「環境問題の解決に果たす市民運動の役割」(水俣病の問題を 中心として)」というタイトルで、現在岩手大学大学院連合農学研究科の学生から発表しても らった。アグリフォーラム鶴岡の会員、山形大学農学部の先生と学生、団体職員あわせて2 0名の参加者で行われた。
主催の「アグリフォーラム鶴岡」は平成8年に、農業に関わる人々が自由に集い、地域に 貢献していこうという目的で発足した任意の団体で、私も発足当時から入会している。現在 26名の農家と5名の特別会員(山大の先生)で構成され、市役所の農政課に事務局をおい ている。これまで、地域住民を対象にした講演会(幸田シャーミン・クロードチアリ・森田 正光等)や映画上演(原野の子)・落語とだだちゃ豆の夕べの開催。市内6つの中学校に、花 束を贈る事業。会員相互の交流と研修、地元の大学の先生や学生との交流を兼ねたミニゼミ 等を実施してきたユニークな団体だ。
水俣に関しては、反農連の甘夏みかんを共同購入したり、東京水俣展へのカンパ、ビデオ テープの購入等、庄内協同ファームとしても関わってはきたが、今回のミニゼミで、水俣病 について改めて問題の根深さと、私たちにとっても身近な問題として考えることができた。 日本の高度経済成長と石油エネルギー資源への転換の国策のもとに、問題を先送りしたこと が多くの犠牲者を出し続けてきたのだ。水俣病という問題から、普遍的な価値を求める市民 運動への展開、環境問題としての解決への模索、ゴミの21種類分別(現在は23種類)、地 域環境協定、環境マイスター制度等で、様々な環境問題に先進的に取り組む水俣の現在が発 表者から紹介された。発表のあと花見酒(?)をくみかわしながら活発な意見交換が行われた。
“水田のダムとしての保水機能、農業は環境をこわしながら保全もしている面があるが、農 薬の使用、化学肥料の使用量は世界平均の20倍と異常に多く使用している問題がある。”“自 分としては、あまり農薬等使いたくないが、消費者や流通関係から見た目のよい、虫の害の ないものを求められているし、価格がとれないのでしかたなく(必要悪)使っている。
“完 全な有機はムリだ。農薬や化学肥料を使わないで済み、資材××を開発してほしい。”“農業 も農薬等で環境に負担をかけていることを認識し、できるだけ減らしていこう。”“楽しい、 消費者から喜ばれる農業をめざそう。”etc. 夜7時から始まったミニゼミも、酒をくみかわしながら12時をまわっていた。農業の環 境問題に関してこの会でこんなに話しが盛りあがったのははじめてだ。少しでも、農薬や化 学肥料を減らし環境にやさしい農業者が増えていくことを実感した。
スケッチ
新緑が美しい季節です。田植えが済み、水を満々と貯えた田んぼが太陽の光りを受け、き らきらと輝いています。
庄内平野の南に横たわる月山の中腹から見渡すと、点在する村々と 合間ってそれはそれはすばらしい景色です。 毎朝、朝ご飯の支度は私の係りなのですが、枝豆やへちまの播種と定植のこの時期は義母 にお願いして、朝仕事から外に出ます。 が、なにせ朝の弱い私のこと、今朝も外に出たら、 もう、ずいぶんとお日様が高く昇っていました。かっこうやひばり、すずめの声に混じり、 きじがからかうように間高い声で鳴いています。
急いで12坪ほどの小さな育苗ハウスに向か います。中には、4月末に播いたへちまの苗が双葉を開き、2葉が出てきたところ、6月1 0日頃に植付けるのは、もう少し大きくなってから。その横には、1週間前に播いた、だだ ちゃ豆の中でも、8月のお盆の頃に収穫の、庄内3号の苗が、ちょうど植え頃です。水をた っぷりと吸わせ、トラクターで耕した田んぼに植えていきます。一本一本並べては植えてい く、腰の痛い作業です。なんか去年より腰が痛いようだと言う私に、「年ひとつとったからな ー。」と笑う夫。そんな夫の歩く後姿もなんかおかしい・・・・。もう少し、6月中頃まで頑 張って! その後、除草のための耕起、虫よけのための唐辛子エキスでの防除など、収穫ま で管理作業になります。 夏の庄内の味だだちゃ豆、このおいしい枝豆を育て守り、私たちに伝えてくれた先人に感 謝し、腰の痛みもなんのその、植え付けて行きます。
もうひとつ、庄内の5月の味をご紹介しましょう。笹まきです。もち米を熊笹の葉で三角 に巻き、ゆっくりと煮て、黒蜜ときなこをまぶして食べる郷土食です。 地域であく汁で煮る所、タンサンをいれて煮る所、なにもいれず白く仕上げる所と、庄内 でも色々ですが、この辺はタンサンを入れうすい黄色に仕上げます。昔はどの家でも作って いましたが、大鍋で長時間煮なければならないせいか、なかなか作る家は少なくなりました。
それでも、家を離れた子供たちや親戚に、毎年送るものを近所から頼まれ、ファームの笹ま きは義母が巻いています。私も義母に教わり、巻いてみましたが、三角にならなかったり、 端からもち米が出たり、煮上がりが軟らかすぎたりで、まだまだ満足のいくものは出来ませ ん。これから何度が挑戦してマスターしたいと思っています。 庄内が全国に誇れる伝統の味を私たちも守り、次代に引き継がなければと思います。今後とも どうぞよろしくおねがいします。
庄内協同ファ-ムだより 2001年 3月 発行 No.73
有機認証二年目の生産者
大雪に見舞われた冬も終わりを告げるように、最上川河口付近に飛来していた白鳥が旅立っています。また、風は冷たいものの陽はやわらかく、川の水もぬるみ、まさに春を感じさせます。
昨年、庄内協同ファームで農業版ISO14001とも言えるシステムを導入して有機認証をする認証団体のアファスから有機認証(システム認証も含め)を得、そのお披露目も兼ね3月10日に第1回庄内協同ファーム生産者集会を行ないました。 授与式・経過報告、各責任者から活動報告がなされた後、認証を得た生産者から苦労話や失敗談を交え有機栽培に取り組んだ報告がなされ、盛大のうちに報告会が終わり、午後から2名の先生方から御講演をいただき、有機栽培の意義と重要性を改めて知らされ、春からの生産に積極的に取り組む事を皆で確認しました。
私個人も昨年、水稲50㌃、枝豆55㌃、黒豆120㌃ほど有機栽培に挑戦しました。(他は特別栽培です) 作付け・栽培方法の計画を作成し、ある程度それに沿って作業を行なうのですが、他からの汚染がないように機械・器具の掃除や洗浄、周囲の圃場・生産者に気を使ったりお願いしたりと今まで以上に、周辺の協力を得なければ出来ない栽培法と思いました。
それに毎夜、第三者から有機認証が証明できるようにチェック項目を漏れなく農作業日誌に記帳、栽培実績台帳に必要事項の記入をしなければなりません。そして、監査員が栽培実績台帳を確認の上、始めて有機栽培農産物として認証できるのです。(この他に生産者台帳、出荷台帳、環境台帳等がありますが、ここでは略します)
今までとは違い記帳・記録に係る時間が多くなり、最初はこんな大変な事出来るのか不安でしたが、これほど几帳面に記録を取るのなら、逆にこのデータを利用しない手はないと発想を変え、コンピュタ-で管理を行ないデータベース化しています。それが2~3年後に営農活動、栽培技術の向上に結ぶのではないかと思っています。
今年も、もうスタートしています。消費者のみなさんの励ましを糧に更なる向上をめざし有機栽培に取り組みたいと思います。
庄内協同ファーム体験記
私は去年の11月から今年の3月まで、アルバイトとして庄内協同ファ-ムにお世話になりました。お先真っ白の地吹雪の中、車で1時間近くかかるこの職場を選んだのには理由がありました。
去年、農作業の経験のない母が、初めて枝豆作りに挑戦しました。農家の人に教えてもらいながら、悪戦苦闘の末、夏には立派な枝豆ができました。朝から夕方までかかって枝をひっこ抜き、サヤを枝からはずして親戚や友人の家へおすそ分けに行きました。 私も一度手伝ったのですが、予想以上の重労働。くたくたになり、「もう二度とやらない」と心の中でつぶやいた程でした。しかし、母には疲れより、収穫の充実感、自分の作った枝豆を「おいしい」と喜んでもらえたうれしさの方が大きかった様で、とても生き生きとしていました。
自分の作ったものを「おいしい」と食べてもらえる喜びと充実感。庄内協同ファームにはそれがあったのです。自分の仕事にやりがいを感じている人達と一緒に働いてみたいと思いました。そんなファームを支えているのは、太陽の様に明るくほがらかなお母さん達。そしてその太陽に少々押され気味ではあるけれど、男気のあるおおらかなお父さん達。お互いの大変さ、喜び、夢をわかち合える夫婦の姿がありました。「夫婦っていうよりは同士っていうかんじだの-」という言葉になるほど、納得。(将来、どんな人を結婚相手に選ぶべきかもかなり参考になりました。)
さて、先日、慶応大学の教授が講演会でこんなことを言っていました。目まぐるしく変化する現代社会で、今一番必要なのは『地域に住む自分達が、楽しみながら自分達の夢を実現するという理念だ。』 “安全でおいしいものを作り、届けたい”そんな夢からスタートした庄内協同ファーム。皆さんの働く姿は、夢をもつことの大切さ、明るく生き生きと働くことの素晴らしを教えてくれました。5ケ月という短い期間でしたが、貴重な体験をさせて頂きました。この場をお借りして、庄内協同ファームの皆さん、本当にありがとうございました。そして、ファームのお米やおもちを買って下さった皆さんの元へ「おいしさ」という喜びと幸せが届きます様に。
旅立ち”も又、春
職に就く子、進学する子、各々に、新しい芽が息吹くことを願って、あと何日と、別れの前のひと時を愛しむ春。忙しく旅支度に追われながら、話しておかなければならないことを伝え忘れたような気がして傍を離れがたい親心。子の旅立ちを手助けできる幸せと、淋しさをかみしめながら、春作業へと向う。
春のやわらかな陽ざしと、顔を出し始めた大地が、私たちのエネルギ-を呼び戻す。やわらかな春の陽ざしが雪を溶かし、春の雨が雪を流す。あんなに降り積もった雪が、一気に呑み込まれるように姿を消し季節は確実にもう春。百姓にも再び春。人の命を育む農業がすたれていいはずがない。”身土不ニ”。改めてこの言葉の意味をかみしめ、又、元気をふりしぼって、大地に向かおう。
“いらっしゃい、春!!”
庄内協同ファ-ムだより 2001年 2月 発行 No.72
大雪の冬に
2月20日20年ぶりの大雪である。庄内平野でも出羽三山の麓、中山間地に位置する我が家 では積雪150cmを越えた。久しぶりに屋根の雪おろしに精を出す。若い頃は屋根 の高さなど気にもかけなかったが、上ってみて驚いた。妙に足がすくむ。俺も歳を とったと実感した。
新聞によれば県内で雪おろし中の事故が100件を越え、何人 かが亡くなられたとの事。お年寄りが多い。毎日降り続く雪の中では、勤めに出て いる息子の休みまで待てず「昔とったキネヅカ」と気軽に屋根に上り事故にあった のか。いたましい限りである。
私の村では幸い事故はなかったが、若い者が勤めにゆき、日中はいない。お年寄 りたちが黙々と雪おろしに精を出す現実は同じ。特に米価が下落し続けるここ数年 は「不況で仕事がない。」といいながらも、何かしらの仕事を見つけ働きに行かなけ れば家計が成り立たない。 先日、公民館の雪おろしで久しぶりに会った友達は、内陸まで2時間かけて働き に行っているという。勤め先の建設会社に地元での仕事がなく、やっと見つけた仕 事先が通勤2時間。朝6時には家を出る。これでは雪をかたづける時間がない。昨年の夏に少し体に変調をきたし体重が40kg台まで落ち込んだ私は今冬、ファ ームの仲間から楽をさせてもらい、少しのんびりした時間を過ごしている。体重も 50kg台中間まで戻った。 これまで冬の間はろくに家にはいなかった訳で、雪おろしも暖冬続きのおかげで やらずにすんできた事もあるが、冬に村の暮らしなど気にもとめずにきた。
村の経 済はすでに稲作(農業)主体から、外からの賃労収入主体へ変わっていることは頭 では理解していたつもりだったが…。 春にそなえて、有機認証も頭に入れ作付けの予定を考えながら、久しく忘れてい た野菜栽培の本などを読みかえしつつ、これまでの自分をふりかえさせら れた。この村に住み、暮らすことの意味をふと考え込むこの頃だ。
スケッチ
20年ぶりの大雪となった今年の冬は、暖冬に慣れた者にとってはとても厳しく長 く感じられました。我が家の近くを流れる湯尻川もすっかり凍ってしまい、蛇行し た美しい川の冬景色を何年かぶりに見ることが出来ました。今年は河川改修のため、 この景色を見るのも最後になります。思い出に残そうと思わずシャッタ-を切りま した。
また、まだかやぶき屋根の我が家の軒下につららが下がり、例年にない太くて長 い美しい氷の芸術が出来ています。窓ごしにそんなつららを見ていると、ライトア ップでもしてみたらどうだろう、幻想的でステキかもしれないなあ・・・・。こたつに 入り、そんな思いをめぐらせながら、コ-ヒ-を飲む幸福な時間を持つことが出来 るのもあとわずかです。
正月明けからの農閑期は、食事の支度を母に代わり私がしています。毎日の食事 の献立を考えるのもなかなか大変な事です。今まで一手に引き受け台所を守り、家 族の健康を考えてがんばってくれた義母に感謝したいと思います。
さて、今日の夕食はキムチ鍋にしようかな! さっそく、裏のハウスに新鮮な野菜を採りにゆく。私と息子の合作である無農薬栽 培の白菜、京葉、春菊、大根、ネギを採って来る。キムチは本場韓国のトウガラシ 粉を使って作った自家製キムチ。 まず、こんぶとかつおぶしでだしをとり、土鍋にだし汁を入れ、みそ仕立てにし ます。材料を長く煮こむものから順に入れ、具沢山のキムチ鍋の出来上がりです。 「鍋、出来たよ-!」と家族に声をかけ皆が揃ったところでふたをあけ、フ-フ- さましながら食べます。寒い夜はこれが一番。身体が温ったまり最高です。残った 煮汁にご飯を入れ雑炊にするととてもおいしいです。
それから、今年はふわふわした出来たての豆腐が食べたくて豆腐作りにも挑戦し てみました。材料は庄内協同ファ-ムの無農薬大豆。凝固剤は海水からとったニガ リ(ミネラルの一種)。レシピ通りに豆乳を温め、ゆっくりニガリを入れ、へらでか き混ぜます。しばらくすると、だんだんと固まってくるのがわかります。それをし ゃもじですくって食べてみました。大豆の味がしてとても美味しく、成功に近かっ たです。欲をいえばもう少しふわふわした、なめらかさが欲しかったです。 冬場の農閑期は農産加工にチャレンジしていきたいと思います。そして家族の健 康を考え、自給率を高め、食生活を豊かにしていきたいと思います。
庄内協同ファ-ムだより 2001年 1月 発行 No.71
「土を買う」
我家では、米とメロンが経営の柱です。その中で、苗を育て植え付けるまでは育苗土が必ず必要です。そんな中で、わだかまっている事があります。「土を買う」という事です。
作物の育苗土を最近はほとんど購入し育苗するのが普通ですが、まわりは全部土というのにそれが利用できないという事を考えています。出来るけどやりたくないのか、やりたいけれどできないのか、自身の考えの中でわだかまってしまいます。
私達の法人、庄内協同ファームでは、昨年新JAS法下における有機認証制度のもとで「でわのもち」「ひとめぼれ」「はえぬき」を転換期間中有機栽培米として認証を受けました。そして、有機栽培米のモチとして加工販売できる事となりました。栽培の上では、十年程前から減農薬減化学肥料の取り組みが始まりでした。組合員それぞれが農薬を減らし、化学肥料を控え有機肥料の度合いを増しながら試行錯誤の繰り返しでした。
私の場合は一部の圃場で収量には課題はあるものの3年前よりやっと無農薬・無化学肥料の有機栽培米を収穫できました。その中で一番の課題は育苗の有機化でした。種子消毒を薬剤に頼らずに「温湯浸法」し、育苗後半頃から全面水を張る「プール育苗」で健苗とはいえないまでも病害虫や障害を出さずに全面植える事ができました。
昨年の6月、有機認証圃場検査の時の事です。「育苗の土はどんなものですか?」「山土を購入していますが・・・」「それを証明する事が出来ますか?」私は、青色申告用の帳簿領収書綴りから購入土先を提示しました。
「覆土や混合している砂は、どこから採取したものですか?」「我家の砂丘畑の作付けしていない隅の方からです。」「それでは圃場の地図と住所地番とその場所を明記して提出してください」「はい」。
環境を考え有機栽培に取り組んだ思いの中で、育苗土の購入も環境に影響を与えているという事を改めて強く感じさせられました。
メロンの育苗の場合は、落葉をかき集め砂丘畑の砂と自家製のモミガラ燻製を混合し購入培土は使用せずに出来ています。しかし、稲の育苗土の自家調達は労力、条件共に非常に難しくなりました。
私達の仲間のTさんは、10ha余りの稲の育苗土は、田んぼの土を取り乾燥させ砕き肥料を混ぜ使用していると聞き驚きました。
土は1枚の育苗箱に約4㍑必要です。10aに25枚使用すれば10?で10t車1台分必要となります。作業や労力を考えると驚くばかりです。しかし我家の場合は、圃場より採取できない理由があります。雑草、特にヒエの発生です。十年程前よりの減農薬の中で収穫時までヒエの種子をこぼさずに取りきる事が出来なくなり、翌年その圃場の土を使用し育苗中のヒエ取りはかなり大変でした。
母に小言をいわれながらも忙しい春作業の中、3~4日かけて取ってもらったにもかかわらず圃場に植え付けたものもありました。その年は悲惨でした。4ha程の我家の圃場すべてが株ビエで、一目で我家の圃場が識別出来る様になり、家族に「村の皆が土なんて買っているんだから」と言い含められました。結局その年も夏のメロンの収穫、大根の蒔きつけで手がまわらず取り切れなく、それ以来購入した育苗土で稲の苗を育てる事となりました。
ヒエの種は、7年は残ると言われています。土を買う行為、わだかまりながら考えていきたいと思っています。
スケッチ
風音もなく静かな夜明け。遠くに除雪車が忙しく動く音が聞こえている。夜中にまた、のっそりと雪が降り積もったらしい。雪だるまのように着こんで起きてみると、昨晩、除雪したビニールハウスの通路が屋根から落ちた雪と積雪とで埋まり、かまくらのようになっている。雪を捨てる場所も、もう山のようになっていて、雪を運び出すトラクターの上で夫は苦心している。暖冬に慣れてしまっていて、これほどの大雪になる冬を迎えるとは思っていなかった。
自給用野菜ハウスの入り口を確保して中に入ると、外の吹雪が嘘のように静かで、チンゲンサイ、春菊、ほうれん草などが凍ってはいるものの青々としている。耐寒性のある冬野菜は寒さで甘味が凝縮されておいしくなり冬の食卓を豊かにしてくれる。
今朝のごちそうは、春菊のごま和え大根の煮物にしよう。漬物蔵に寄り赤かぶ漬、紅花で着色した紅花たくあん、山形青菜漬も持っていく。樽の中に入れた手は切れるくらいに冷たくなった。雪室のようになった蔵は漬物の味の変化を抑え春がくるまで保存することが出来る。ぐるっと家の周りを歩いて食材を調達し台所に戻る。ストーブとごちそうを作る火が雪だるまを溶かすように体と気持ちを暖かくしていく。
今日は、遠くに暮らす娘と息子にお米を送る日。仕事バリバリ社会人一年生の娘は、ごちそうも一緒に入れてとのこと。自炊生活をしている料理好きの大学生の息子は野菜を入れてとのこと。おムコさんに喜ばれそうな娘と、今すぐにでもお嫁さんになれそうな息子。2人の大好きなおもちは、蔵開きをした鏡もちを薄くスライスしたのを入れる。出来たてのうどんや鍋物に入れるだけですぐにやわらかくなり便利だ。少し硬くなってきた干し柿はフルーツケーキにして焼くとまたおいしい。節分用の豆は少し砕いてクッキーに混ぜると香ばしく、節分豆クッキーとしてまた楽しめる。
冬の庄内の味をたっぷり詰めた2つのダンボール。宛先が逆だったらと思いながらもせっせと荷造りをしている。夫には、また親馬鹿が始まったと言われるが、私が親にしてもらったことをまた子供に送っているだけ。生まれ育った味は細胞を元気にしてくれるから。
大雪のこの頃、少しづつ日暮れが遅くなってきた。暦の上では、そろそろ立春。子供達が小さい頃にしたように軒下に下がった「ツララ」を鬼の角にして、鬼の雪だるまを作ろう。雪玉を投げて「鬼は外、福は内」・・・・・。
今年も良い年でありますように。
庄内協同ファ-ムだより 2000年12月 発行 No.70
一年間のご支援ありがとうございます。
おさい銭 百円玉一つ ぽんと投げて 手を合わす お願い事の
多いこと 相田みつおの日めくりカレンダーの一ページ。
以前は二言三言、今は目を閉じてややしばらく手を合わせている。誰もが身に覚えのあることだ。新年を迎えて、今年こそは、こうあってほしいと願う気持ちは農家ならさらに強くなりそうだ。
今年の天候は比較的恵まれ、作柄も品質も良いと言われているにしては農家の顔は暗い。米の価格は下がる一方だし、転作も増える一方だ。5年間で米の価格は25%も下がっているし転作率は30%にも達している。村の生産組織は平均年齢が毎年一才ずつ上がっていくし、いつ壊れても不思議はない。
冬の仕事に、きのこの栽培をしていた者も激減した。韓国と中国からの輸入に太刀打ちできなかったからだ。今、中国では日本向けに日本と同じ面積のねぎが植えられている。国を挙げての政策だ。勿論、有機認証を取得するという。新年の願い事が多くなるわけである。
この国は、いったいどこに行こうとしているのだろうか。国も、政治も、経済も混迷するばかりであるが、庄内協同ファームは町と村の産直提携を進めることと、地域と一緒になって発展しようとすることが基本にあるのだと思う。そのためにも、農業を営む中で考えている“気持ち”“こころ”“思い”を発信させていく事が大事だと思う。
庄内協同ファームの発展は私たちの農産物や農産加工品を買っていただいた人たちによって、あるいはそれに係わってきた人たちによって支えられてきたのだ。物流ばかりでなく、こころの支えがあったのだと思っている。今後も支えられながら発展する努力を惜しまないつもりだ。
春からJAS法の有機認証取得のために動き回ってきた結果、秋10月に認証機関(株)アファスの栽培及び加工食品の有機認証を取得できたが、組織の立ち上げ、書類の整備、監査員による監査、判定、と予想もしなかったほどの時間とお金が必要とされたが、悪い事ばかりではない。
一つは情報を公開できること。どんな作り方をしたのかをはっきりと表示する事ができること。二つは認証システムを組織改革につなげることができることだろうか。
経営としての効果はすぐには期待できないかもしれないが、猛烈な価格破壊には少しは抗しうると思っている。まだまだ、認証に関してもJAS法に関しても変わっていくことが予想されるが、今のところ庄内協同ファームは認証取得を方針としている。そして来年の春には新しい工場での餅製造になる予定だ。
最後に庄内協同ファームの建っている山形の歌人斎藤茂吉の晩年の歌を掲げたい
最上川逆白波のたつまでにふぶくゆうべとなりにけるかも
斎藤茂吉
スケッチ
12月にしては穏やかな日和に誘われて、柿畑へ車を走らせるとすっかり葉を落としもぎ残しの柿の実を所々にぶら下げて淋しげに柿の木が並んでいる。雪の降る前のひと時を惜しんで忙しく剪定作業に励む人々の姿もどこか寒々しく、たわわに実をつけ葉を茂らせていたころとはうってかわって静かな光景である。
今年はこの柿畑にちょっとした異変があった。地元の中学校から、二年生160名に、柿畑で農業体験をさせてほしいとの申し入れ。1軒の農家への割当が6~7名。若い世帯が働きに出て、年寄夫婦が現役で柿畑を守っている農家が多いこの集落の中で、160名もの中学生を受け入れられるだろうかという不安がこみあげてきた。
作業には道具もいるし、人を運ぶ車もいる。お手洗いだって皆、天然自然の中だからそれはどうしようとか、受け入れの相談会では喧喧ガクガク。それでも皆頑張って受け入れることを決め、当日の不安は学校と役場、農協、村とが協力し、何とか一つずつ片付けていった。
迎えた当日は秋晴れのいい天気。ぞろぞろと160名が自転車に乗って坂道を登ってくる様子は壮観であった。
我が家には、男子3名、女子4名。数の上でも元気の面でも女子が勝っている班に見えた。早生柿のもぎ取り作業をしてもらったが、細かい注意を良く守って、ていねいに仕事をしてくれた。
おもしろくないのかな、と心配するほど無口でおとなしい子もいたが元気よく様々の声を発しながら仕事する活発な子に支えられて楽しく作業が進んだ。
一日一緒に働いていると、各々の個性が良く見える。何よりも、7人の会話を聞いているのがとても楽しく、若さっていいなと心から思える。
学校で起こる様々の問題行動をよく耳にするが秋晴れの空の下で、小さな虫や、くもの巣一つにキャーキャー言いながらあけっぴろげにはしゃぐ彼女らを見ていると、他人事のように思えてくる。
一生懸命働いてもらったおかげで持ってきたコンテナは、柿で一杯になり集合場所へ戻る軽トラックの上の子供たちが元気で誇らしげだった事。労働の成果が目に見えた事で自信を持ったのかもしれない。
作業の数日後、一人一人の感想が届けられた。やる前はいやだと思ったけれど、やってみたらおもしろかったとか、やったことのない仕事で楽しかったとか総じて、こちらが楽しくなる文面で安心した。
それから一月程して、収穫が全て終わったところでこちらから手紙を書いた。一生懸命やってくれて嬉しかったこと、みんなの元気が村に活力を与えてくれた事など、14歳の子供たちに感謝を込めて書いた。人に感謝される事の嬉しさや、一生懸命やれば人は応えてくれるということを、あの7人の子供たちに知って欲しかった。手伝ってくれた子供達へ、私たちからのささやかなお返し。二日目はあいにくの雨だった一日農作業で終わってしまったけれど、山の空気のおいしかった事、協力して働く事の楽しかった事を忘れないで欲しい。
“さとみー!!”と元気に友達を呼ぶ声が耳の奥で思い出と共に響いている。
庄内協同ファ-ムだより 2000年11月 発行 No.69
小春日和に思いつくまま
きれいだのおー!霊峰月山、そして鳥海山。
まっ青な小春日和の青空にずっしりと横たわる様に、しかも悠然と白いものを頂きに装いつつ!
我等が庄内の誇り。ああー見せでやっでのー。皆んなさ。
冬は、かすかな足取りで確実に近づいています。ここ庄内は地吹雪の名所。そんな厳しい冬に備えて、天気のいい日には家の回りに家族総出で雪囲いをしたり、冬に食卓を彩る白菜やらキャベツ・大根などを畑からつんでは新聞紙に包んでつるしたり、土に埋めて保存したり、つるべ落としの短い一日を忙しく過ごしています。
しかし最近はそんな姿もめっきりと少なくなって、働き手は生活のために日銭を稼ぐために精一杯。限りなき米価の下落、転作の強化。洪水のごとく押し寄せる輸入農産物。後継者に継いでくれといえない今の農業情勢。数えあげたらきりがない。先行き不安に押し倒されそうになりながらも、食べてくれる皆さんがいてくれることを励みに、何とかがんばろうと声をかけ合う。
「安くて安全でおいしくておまけに環境にやさしくて」なんとも欲張りな消費者ニーズ。戸惑いながらもそんなわがままなニーズの一部にでも応えようと協同ファームでは、有機栽培へ取り組んだ改正JAS法に定められた認証制度による栽培へのチャレンジ。
膨大な記録簿、百姓の一番不得意な所。これが嫌だから百姓したのに。人に干渉されるのが嫌だから百姓したのに。この年になって何でなの!ボヤキとも嘆きとも、悲鳴ともつかぬ言葉が飛び交う。
思えば私も有機栽培を志してから10年近くになる。横浜港に陸上げされた輸入農産物の実態を目の当たりにして、これが人の体を作っている食べ物の姿なのかと愕然として、これではいけない。何とか本物の食べ物を作らねばと思い立って始めた有機栽培。それまでは近代化農業という名のもとに機械化して化学肥料、化学農薬を駆使して収量をあげる事に全知全霊をかけて奔走した日々だった。
しかしある日、努力すればする程土をいじめていることに気づき、今まで百姓してこれたのは、先祖が頑張って土を作ってくれたおかげ。私が次の世代へ残してやれるのは、壊れた固くしまった土と汚れた空気。これではあまりに恥ずかしい。悔いが残る。
そうして始まったのが、今の遊喜栽培、自然農業である。厳冬のハウスの中で、春に種を蒔いてたわわに実る稲や枝豆の姿を思いつつボカシ肥料(発酵肥料)作りに精を出す。微生物の力を借りて、切り返すたびに放つ芳醇な快いにおいを体一杯に吸い込みつつ、楽しみながら遊び心を持って百姓をしている。いやつもりだ!
今年からは就農2年目の息子に稲作りをまかせ、私とかあちゃんはだだちゃ豆作りに専念する。
なんかさびしくもありうれしくもある。仲間は贅沢な悩みというが経験した者でしかわからないこの気持ち。
そう言えば、おつむのあたりも心なしか秋模様。ハラハラと散る落葉にもなぜかいとおしさを感じる。もうすぐ冬だなあー。ITに取り残されたおっちゃんは今日も迷走する。
庄内協同ファ-ムだより 2000年9月 発行 No.68
へちまのこと
へちまの花は美しい。直径10センチ以上もある大きな黄色の花が、その薄い花びらを風に揺らして咲いている様は、実に見事だ。
へちま畑のそばを通りかかる人は思わず足を止めて見入ってしまうほどである。
今年は、9月1日に2回目の、へちま畑回りを行った。の8人のメンバーで、すべての畑を回りチェックする。我が家の作業形態では、へちまの採水と稲刈りが重なると仕事がきつくなるので、今年は、稲刈り前に採水を終わそうと準備にかかる。洗浄済みの一升瓶の王冠は、ラジペンで取ると指先を痛めない事を発見。100円ショップで買い求める。瓶のケースを軽トラックに積み込んで一路へちま畑へ。アルミホイル、カッター、消毒液などの7つ道具を入れた籠を腰に下げ、いよいよ作業開始。
常に、カッターや、手や、へちまの茎などの消毒は手抜かりなく行う。地上60センチ位を、カッターで斜めに切るとへちま水がにじんでくる。それを一升瓶に差し込み、アルミホイルでしっかりと巻き雨水などの浸入を防ぐ。このやり方で、朝、セットして夕方回収。
直ぐセットして翌日の朝回収。またセットして、夕方回収というやり方で、1本のへちまから丸2日採水したら、それ以上は採水しないという取り決めがある。これはへちま水の品質を、一定に安定させる意味がある。瓶に4~5枚の新聞紙を巻いて洗濯ばさみで止め、日除けにする。ポトン、ポトンとひと滴づつ瓶にたまっていく、自然の恵みを大切に採水する。
八彩耕房のメンバーも40代後半がほとんど。1年づつ体力の衰えを実感する年齢である。重い物を持つのが大変だ。だが、これがへちま水になると、その重さを感じないから不思議である。
農村女性8人が、各自の個性を生かしながら、土と向かい合っていきたいという思いを込めてスタートした『八彩耕房』のネーミングもおなじみになったと思います。
今年もへちま水が採れました。皆さんどうぞ宜しくご愛顧下さい。
庄内協同ファ-ムだより 2000年8月 発行 No.67
秋祭りの晩に
旧盆を迎える頃、五穀豊穣を祈って、村々では秋祭りが行われる。私の住む村では、8月16日、隣村では15日、生家では、18日に開かれるのが習わしだった。
当日は、親戚中を呼ぶので、家々の者はもてなしに追われ、祭りどころではなく慌しく過ぎ去ってしまう。そこで近頃では、祭りの前に村人達で楽しむ会を開くところも多くなった。それが、今年は12日。公民館の広場にテントを建て、出店し、トラックの荷台を舞台に仕立てて、カラオケや踊りを楽しむ。暑かった一日を生ビールでいやし、久しぶりに戻った若者たちで活気づき祭りも佳境に入った頃、それまでサワサワと吹いていた東よりの風が、強くなり始めた。いやな風だな、と思い始めたのもこの時刻。8時頃だったのかもしれない。
祭りも無事終わり、床についた頃いよいよ風音は強くなって窓を揺らした。出穂したばかりの稲に傷がつくことを心配しながらも眠りに落ちていった。
翌朝、田んぼ廻りに行った夫が、異変を伝えた。「風で稲がやられている」話を聞いただけでは程度が想像できないので自分で確かめる為に圃場へと走った。
今年は天候が穏やかで順調な生育を見せていた稲に期待を寄せていただけに又、何かが起こってしまった不安を感じながら、田んぼに目を向けた。
稲穂が銀色に輝いていた。見たことのない光景だった。風を受けた渕を中心に、被害を受けた所が、銀色に染まりまだ止まぬ風に揺れていた。全面やられている所もある“白穂”というのだそうだ。昨日の落日まできれいだった稲が、たった一晩の東風でこんな被害を受けてしまうことがあるのだということを初めて知った。出穂したてのコシヒカリ系の稲が一番手ひどくやられていた。逆らえない自然からの受け入れ難いプレゼントは今年はこんな形でやってきた。皮肉にも豊穣の秋を願いながら飲んで騒いだ祭りの晩の出来事だった。銀色に光っていた稲穂は翌日には白に変わり今は赤茶けてすっかり枯れ、稔り始めた田んぼの中で首を伸ばして立っている。イモチ病にやられた時と同じ色だ。長く農業を続けてきた夫にとっても、この“白穂”は初めての経験だという。
庄内協同ファームの中で、この被害を受けたのは私の地区だけ。台風のように広域にわたる被害ではないものの、ここから見て、北東地区ほど被害は大きかった。
ともあれ、暑かった夏も気がつけばいつしかせみの声が止み、秋の虫の音が心地良く響く頃となった。8月も残りわずか、月が変われば枝豆の最終品種庄内5号の取り入れ、デントコーンでのサイロ作り、ヘチマ水の採水、そして稲刈りへと入っていく。季節の移り変わりをゆっくりと楽しむ余裕もなく、次々と続く作業を追いかける日々を、これも1つの幸せと呼ぶのだろうかと思いながらすごしている。
庄内協同ファ-ムだより 2000年7月 発行 No.66
暑中お見舞い申し上げます。
暑い毎日が続いています。いかがお過ごしでしょうか。
今年も7月末から8月上旬にかけて稲穂の出る季節となりました。春、3月20日に種籾に薬剤を使わず、60度のお湯に10分浸漬し殺菌して始まった作業から、4月に床土と肥料を合わせる作業(今年は、有機質100%の肥料とくん炭等をつかう)、箱に詰める作業、播種作業と連続した作業の後、ハウスにそれを並べて育苗の前半作業を終える。今度は平行して田圃の基肥散布、耕起、5月の潅水、代掻き、田植えとなり一連の春作業を終える。この後除草の為にトロトロ層は米糠ペレットを10アール75kgから80kg散布した。この間、約1月半本当に忙しかった。
去年から、トロトロ層栽培稲作(育苗時から無農薬・無化学肥料)に取り組み今年は面積を増やしてみた。(トロトロ層:田んぼ表面を発酵させ草が生えないようにする)ファームの仲間に聞くと大変な話ばかり聞いているので心配していたが、2日間除草のために43アールの田に入り、手で地球の表面を所々撫でて回っただけで終える事が出来た。雑草は、ヒエは少なく今年始めた所には、コナギが多く生えていた。去年から始めた所は、ホタルイが多かった。しかしその他に多くの生き物がいて、タニシ、ヒル、オタマジャクシ、ミジンコ等動き回っている。これも5年前から続けている有機質肥料の散布の効果なのかなと思っている。
ここに来て、去年米の品質を悪くした害虫(カメムシ)の多発警報が出されて心配している6月から7月にかけての温度が高かったためと思われる。今まではイナゴの発生が多く困っていて今年は少ないなと思ったらこれである。本当に毎年何か起こるものである。
今後どうなるかは、後のファーム便りに譲るとして、7月24日の夜の雷はすごかった。寝苦しいので窓を開け雷のショウを見ていた。とめどない光の点滅と雷音、地球の最後はこうして終わるのかなと考えてしまった。30分くらいのショウも終わり、涼しくなってきたところで自然に寝てしまったようで朝まで窓は開いたままだった。人間のやっている事は、自然に比べれば小さなように思われるが、それでも人間は自然を食いつぶして生きている。いつか昨日の夜のような終わりが来ないように!