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庄内協同ファ-ムだより 発行 No.100 2003年12月

今年の稲

冨樫俊悦 鶴岡市

私が農業を始めて今年で五年経った。イネミズゾウムシで田に稲がなくなった年もあった。
有機栽培の田には毎年立派なヒエがたっている。今年は冷夏という事もあって収量は例年の一俵落ち。
もともと収量が低いので一俵落ちると凄く痛い。ここまできて、やっと自分を「甘い」と反省している。

有機栽培だから草が生えていても当り前、多収穫を狙えば病気が出やすい減農薬無化学肥料栽培だから収量は低いんだ。今までは一生懸命やる前に決め付けていた。
 ある程度のことをやって「出来る事はやった」と自分をごまかした。しかし、今年、冷害でも精一杯稔り垂れた稲穂を見て「精一杯」の意味を教えられた気がする。

今思うと…

高橋直之 余目町

僕が農家の家に「マスオさん」の立場で来てから3回目の冬を迎えた。農業の「の」の字も分からずに秋の終わりに鉄工所を辞めて富樫の家に来て、その冬からファームにもお世話になり、もちつきの仕事も何だかんだで3年目。
その「何だかんだ」の間、春のとてつもなく忙しい田植え、暑い中ビニールハウスを2棟建てた去年の夏、雨に追われながらの稲刈り、そしてなかなか先が見えないもみすり等々たくさんの仕事や経験をした。

「今思うと激動の2年だったよの」と嫁さんと話をしながらこれを書いていて、「でもまだ2年しかたってないんだよの」と思った。これからあと何回の田植えが待っているのか。何万の米袋を作るのか分からないけど、大変な仕事だとしても、そこに「楽しい」好きな部分を見つけられれば何とかやって行けそうな自信が少しずつ出来てきたかな。
でも、大好きで毎日でも食べたいジャガイモ(コロッケが好き)頑張って作ったけど、お金にはそんなにならないんだよの…..。


庄内協同ファ-ムだより 発行 No.99 2003年11月

百姓の心意気

志籐 正一 藤島町

11月も半ばに入り、鳥海山も月山も中腹まで雪をいただき、刈り取りを終え静かになったたんぼには白鳥が群をなして落ち穂をついばんでいます。
このところ11月にしては珍しく穏やかな天気が続き、転作田の大豆の収穫もいよいよ追い込みに入っています。せめてこの秋の天気が半分でも7、8月にあったらと恨めしく思いつつ、93年以来10年ぶりの冷害年の今年、庄内協同ファームの米の予約をまとめた結果を見ると、うるち米で80%もち米で85%くらいの収穫量になりそうです。

不幸中の幸いといえるかどうか、今年の春先、庄内協同ファームではもち米が底をつき加工場が開店休業の状態になったことを踏まえ、栽培面積を多くしました。このおかげで何とか減収分を確保し去年並のもちの供給にはこぎ着けられそうです。
不稔型の冷害で、10アールあたり3~4俵しか穫れず、他の産地からもち米を買わざるを得なかった1993年の冷害を思い起こせば、何とか自前のもち米でおもちを作れることに安堵しています。

今年の米不足をマスコミはそれほど深刻には報道しない様ですが、実際の減収はかなりのもので、東北北海道の中では減収率が低いと言われるここ庄内でも農協は仮渡し金を昨年比125%まで上げ集荷に懸命です。
特に不足になっているのがもち米で仮渡し金は昨年比140%、農家の庭先には、3万円でも4万円でもいいから、もち米を売ってほしいという業者が出入りしていてなかなか集荷できないようです。豊作だと言っては減反を増やし、不作を迎えれば極端に米価が上がってまたまた消費が減る。

こんな繰り返しに私たちは少し距離を置きたいと思います。産直の意味をもう一度問い直し、業界の値動きに惑わされることなく、何とか値上げをせずこれまで通りの価格と品質でお米やもちを供給したいと思っています。
15~20%の減収は所得に換算すると50%減位になってしまいます。豊作でも不作でも生産費は同じなので不作分はそのまま所得に食い込むからです。またこれまで低温や冷害の時ほど、有機のたんぼは強みを発揮すると言われてきましたが実際はなかなかその通りにはいかないようで、カモなど害虫対策をしたところは有機栽培でも比較的収量が安定していますが、大部分のたんぼは田植え後高温に経過した今年、生育前半にイネミズゾウムシなどの害虫被害やおもわぬ地震の被害などを被ったことが最後まで響いたようです。こんな冷害の年でも年々種子の数を増している雑草は遠慮無しに生えてきます。

そんなこんなで、有機の田んぼも減農薬も総じて収穫が進むにつれて収量が低いことがはっきりしてきています。
にもかかわらず、価格の据置は私たちの大きな決意であり、感謝の気持ちであり、百姓としての心意気です。これからも相互の信頼の基におつき合いを重ねていきたいという私たちの願いでもあります。

農民が農民らしく生きられることを目標に庄内協同ファームは組合員の経営と生き方を支える組織として法人化し、15年を経過しました。産直を通じて知り合えた皆さんに支えられ同じ生活者として学習する中で、環境汚染、環境ホルモンや遺伝子組み替えの問題など多くの問題に関心を持ち、農業のやり方そのものを変える必要があることを知りました。
私たちにとっては大きな決断でしたが農薬や化学肥料に出来るだけ頼らない農業を目標に組合員がそれぞれ工夫をして挑戦してきました。

雑草が生え、害虫の被害でみすぼらしくなった田んぼを前にして、このまま続けていいのだろうかと迷うこともたびたびですが、やはり私たちの目指すところは“命をつなぐ本物の食べ物を作る”であるように思います。
迷ったときはこのことに立ち返りつつ、農業をやり続けることが日本の農業を守ること、地域や環境をを守ること、そう信じてこれからも頑張っていきたいと思います。
 加工場はいよいよ生産に加速がかかり、猫の手も借りたいほどの忙しい季節を迎えます。広かった駐車場が組合員や餅つきのためにお願いした臨時の作業員の人たちの車で埋め尽くされ、白衣に身を包んだ50人近くの人達がにぎやかに作業をすることになります。
出来上がった庄内協同ファームのおもちが皆様のおいしい笑顔を誘えますように。


庄内協同ファ-ムだより 発行 No.98 2003年9月

25回目の秋

志籐 知子 藤島町

「どげだや、出来は?」「ねっけのー。」「ねっけぜー。がっかりするほど!!」  こんな会話が飛び交って、今は稲刈りの真っ最中。
10年ぶりの不作で、報道では、ここ庄内の作況指数は94と言われておりますが、実際の収量は、84くらいなのではないかというのが実感です。収穫に向けて様々のアクシデントに耐えて対応してようやくたどり着いた結果がこの作況。誰に怒りを向けられるでもなく、現実を淡々と受け入れて、コンバインを稼働させています。
10月から、もちの加工を控えている私たちにとってその原料となる餅米の不作は大きな脅威でしたが、どうやら不稔型の不作ではなさそうだとわかった時には、ホッと胸をなでおろしました。ちなみに今年のような不作は低温日照不足による遅延型の不作と呼ばれています。東北の中では太平洋側の地域で不稔が多発し、不作はより深刻となっていることを思えば、被害がこの程度でおさまったことに感謝しなければならないのかもしれません。
 いつもなら、もう大半を終えている時期ですが、稔りを待っての今年の稲刈りは、まだ始まったばかり・・・・
それでも、加工場では、餅つきの準備が着々と進んでいます。刈り取りの遅れが加工に影響することのないよう、調整に励み、穫れたての餅米がふっくらおいしい餅に変わる瞬間を私たちも楽しみに待っている所です。
 我が家では今は柿畑の草刈りと支柱立て、それに冬期間の豚の餌となるデントコーンでのサイロ作りがあります。稲刈りの合間を見てどの仕事をするかを決めます。仕事を選ぶ決め手は天候です。雨降りなら豚舎の中、小雨程度なら柿畑の仕事、晴れならデントコーンの処理という風に決まります。なにも仕事の無い日というのがあれば大歓迎なのですが、養豚農家という性質上、そういう日は1年に1度も巡ってこないのが現状です。
 忙しい日の連続で1年が終わってしまわないようにと9月から半日ずつ雇用を入れることにしました。特に条件なしで募集したので、結局1番最初に面接に来てくれたWさんと言う農業経験の無い実直そうな人に決まりました。
どの仕事も初めてで、彼を見ていると、自分の就農当初の辛かった思いを久しぶりで思い出すこととなりました。何をしても体力が追いつかず、口惜しくて頑張っても仕事はさほどはかどらず、それでいて疲れは人の倍・・・・ ああそうだったと、忘れていた自分の歴史を彼が繰り返して見せているようにも思えました。
 たいていの農作業をそう辛いとも思わずにこなせるようになった今の私は、自分自身が長い年月をかけて、自分の中に蓄積してきたものなのだと改めて認識させられました。そう考えると、農業という仕事の中で何時間も頑張って働く能力と体力のある私達は、もっと自分に自信を持ってもいいのではないか、誇りを持ってもいいのではないかと思えてきました。リズミカルに体を動かし、無駄なく無理なく持続する草刈りなどは、まさに技能そのものです。
就農して25年、25回目の秋を迎えました。知らず知らずのうちに自分の体の中に蓄積されて来た技があったようにこれから先の人生でも又、積み上げられていく何かがあればいいなと思っています。若さが失われていく分、肩の力を抜いて余裕を持って仕事とも人とも接していくこと出来ればいいと思います。
 デントコ-ン畑での夕刻、見上げた空に無数の赤とんぼが舞っていました。今年始めて目にする光景でした。今年のような不順な天候の中ですら、自然は小さな命を間違いなく育んでいます。その確かさに感動しつつ、自分自身の中にも、確かなものが息づいていることを信じて、忙しい季節を乗り切りたいと思います。


庄内協同ファ-ムだより 発行 No.97 2003年8月 

異常気象の夏

佐藤喜美 鶴岡市

 セミの鳴き声もあまり聞こえない、クーラーをつけるほどの暑さでもない、今年は8月2日に梅雨明け宣言をしたものの1週間後には撤回するというやはり相当異常な夏なのだろう。近頃、毎朝雨の降る音で目が覚める。「ああ、また雨か」仕事への意欲が半減してしまうが、その気持ちを奮い立たせ雨具を着て枝豆畑へ。

 我が家では、今シーズンからだだちゃ豆の作付面積の増大にともない、労力の軽減化を図るため、枝豆床土入・播種機・定植機を導入した。発芽率が70%の低さゆえに、直播ができないだだちゃ豆は移植栽培方式が用いられている。

稲作の管理と重なる忙しいこの時期、手間のかかるセル苗作りで、どの仕事を最優先するか夫婦ゲンカの種でもあった。しかし、機械導入により2人で作業しても1日かかる仕事が1人で半日でこなせるようになった。

4月の中旬から随時播種し、端境期をなくすために10種類もの品種を作付けしているが、8月に入ってからの日照不足、低温続きで1品種はおくれている。自然の前には無力を思い知らされ、空を見上げては恨めしく思っている。

 先日、山形新聞(地方版)の「私の主張」という欄に中学校以来の大親友の記事が載っていた。少し抜粋して載せたいと思う。彼女は熊本に嫁いで27年、時の流れを忘れさせてくれるものが、庄内の「だだちゃ豆」である。この時期になると彼女の元に彼女の父親手作りの「だだちゃ豆」が山ほど送られてくる。

送られてきた枝豆の量に驚きながら、熊本の家族全員でビールを片手に枝豆を頬張り、「おいしいね」「枝豆の王様だね」「日本一だね」「他では食べられないね」などと早口で言いながら食べている彼女に、ご主人も、子供たちも「またか」と笑いながら「うん、おいしいね」といって食べてくれる、との事だ。

 遠い地で、だだちゃ豆で『故郷を味わう』彼女の顔が思い出されます。最後に彼女はこう結んでいた。「私もいつの日かかめばかむほど深い味わいのある『だだちゃ豆』のような人生だね。」といわれるような人になりたいと。私も同感だよ。


庄内協同ファ-ムだより 発行 No.96 2003年7月

稲が・・・ない

鶴岡市 五十嵐 良一 7月14日

 就農したての若い頃、米作りの事で同じ様な夢を幾度となく見るものでした。

村の東の通学路沿いの圃場が泥水の冠水で「黄化萎縮」という病気で、稲が全面出穂せず、落ち込む夢でした。はっとして目がさめ、夢だった事にほっと安心した記憶です。

 農を業として30数年、それに近い経験はありました。育苗の全面失敗、播き直し、全圃場の倒伏、イモチ発生の減収、冷害により傾かない穂。それでも植えた稲が全面なくなるという様な事はありませんでした。まかぬ種は生えないけれども、植えた稲は、減収する場合はあっても秋には、米として収穫できました。

 しかし、5月26日6時半頃の地震の翌朝、紙マルチ田植機で移植した圃場に水回りに行った時、愕然としました。5月11日、12日植えたはずの稲が・・・。120aの私の圃場が・・・。やっと活着し、少し黄ばんだ苗から緑色を増しやっと稲と呼べる私の稲が・・・。緑が・・・。所々にしか見えなくなっていました。地震の被害で、そうなったと理解できたのは、翌日になってからでした。

 私達、庄内協同ファームでは、有機認証による有機栽培米の取り組みをし3年目を迎えました。昨年仲間と共同で紙マルチ田植機を購入しました。1.9m程度の黒い紙を敷きながら田植えをし、田面をすべて紙で覆い除草効果を狙った栽培方法です。

 有機栽培においての育苗方法は、種子の病害発生は木酢や温湯で、又、有機肥料の障害も、水を貯めるプール育苗で、何とか、失敗を重ねながらも、確かめながらやってきました。病害虫については、肥培技術や、天然由来の資材の利用で、増収は望めないもののある程度まで対応してきました。

 しかし、除草については、面積を増し、仲間を増やす決定的な方法はかなり難しい事でした。

 そこで一年の試験的な紙マルチ田植機による、有機栽培に取り組み仲間と話し合いを重ねての導入でした。

 昨年7ha余り、今年新たにコシヒカリの作付けも行い10ha余りに増えました。

 地域でのつながりも新たに取り組み、有機栽培米を広げようとした矢先の出来事でした。

 自分の水管理の失敗と前夜の風で、紙マルチが浮き、稲が紙マルチの下敷きになったものと思い、前日の少し多目の潅水を悔み、そしてこの新しい紙マルチ田植機の栽培技術に対応出来なかった自分が情なく、家族にも、一日中話す事が出来ませんでした。

 枝豆の移植作業、メロンの摘芯作業と忙しさもピークの時期でした。

 再度、代掻し植え換えも考えました。しかし時期は遅すぎるし、補植しかないと覚悟し(コシヒカリ、でわのもち)の、有機の苗の都合をしようと仲間に電話をしました。

 被害は私程ではなくても、13名のうち4名が同じ様に紙マルチの下に稲が埋没し苦慮している事がわかりました。

 そして、その原因が潅水や風の影響ではなく地震によるものだという事が、、、、、。

 同じ被害の菅原孝明さんは、紙マルチの下の稲は、活着しているから、まだ大丈夫と下から苗を引き出しているという事でした。

 翌日5月28日、息子と2人で補植苗を少しだけ背負い、同じ様に作業を始めました。

 しかし、腰の痛さに落担も手伝い、遅々としてはかどらず、どうしたものかと思いあぐねている所に、ファームの仲間で一番若手の佐藤和則君と代表の佐藤清夫さん夫妻が応援にかけつけてくれました。

 「一町歩でこの作業はムリだ。紙マルチをはぐしかない。除草の対応は、後で考えよう。とにかく活着した稲だから、稲の力を信じよう。」

 その助言で1ha余りの紙マルチをはぎ、土の中に埋める決断をしました。5月29日昼まで、仲間に助けられながら、妻と息子の協力も得て、何とか1.2haの圃場に「稲がある」と見られる様な圃場に復活しました。

 「一生のうちいろんな事があるもんだ。」「百姓は、毎年1年生だもんな」そう思いながら、3度除草機を押しました。株間に繁茂したコナギに除草が追いつかず、今度は雑草に埋没しそうな圃場で、7月3日、今年初めてトンボを見ました。7月9日、せみの声がきこえました。


庄内協同ファ-ムだより 発行 No.95 2003年4月

それぞれの春

鶴岡市 五十嵐ひろ子 4月30日

今年こそ、ゆっくりと桜の花を楽しみたいものだと思っていたのに、春の農作業に追われ、気づいてみると、もう、葉桜。
でも、新芽が萌えるこの季節の山々は、色々な緑が競い合い美しい。その中に、淡いピンクの山桜が満開になるのもこの季節です。
桜の花見頃を逃してしまった私は、畑へ軽トラックを走らせる道すがらこの山桜の風景を楽しんでいます。田んぼでは、トラクターがエンジンの音を響かせて、耕起、代掻きと忙しく早い所では、田植えも始まります。
メロンの定植が終われば、だだちゃ豆の播種と定植が同時進行で続き春は、何もかもが始動の季節です。

我が家も、この春は4人の子供達が、それぞれ動きだしました。長男の就農、長女の大学卒業都内へ就職、双子の次女と三女は、それぞれ仙台近くの専門学校、地元の看護学校へ進学。それに伴い、受験や、卒業式、入学式や引越しが重なり、バタバタと目の回る忙しさ。それを挽回すべく、農作業に追われ、桜を眺めている時期を逃したのも仕方のない事です。
自分の夢を実現するために、親元を離れ自立して行く子供達。それは一抹の淋しさはあるものの、親としての役割をある程度果たせたかなと夫と話すこの頃です。

18年前、双子の女子が誕生し命名する時、夫はだいぶ悩んだそうです。特別な思いがあったのでしょう。それで古代の織物に紗綾織りと倭文織りという織り方があり、その縦糸と横糸のように助け合って、生きるようにと、紗綾香と志津香と名付けたとか。

日曜日、ハウスで仕事をしていると志津香が手ぬぐいを首にかけ、長靴姿で「母さん何か手伝うよ」なんて私の仕事場に来るのです。双子の姉と離れて淋しいのかもしれません。
私は「めずらしい種があるんだけど種播き手伝って」と誘います。今年の2月に「らでぃっしゅぼ-や」の東北大会の母さん集会で仙台に行った時、野口種苗さんに頂いた色んな在来種の種です、この種を娘と一緒に播きたいと思ったのです。甘露胡瓜、沖縄ゴーヤ、丸型ズッキーニ、チコリー、ヒロバキクジシャ等々、ファームのお母さん達にも分けようと思っているところです。
種を播き、芽が出て、花が咲き、やがて実を付ける、農家と子育ては同じだなあ、と長男が運転するトラクターの音を聞きながら思う、春の一日でした。


庄内協同ファ-ムだより 発行 No.94 2003年3月

神様と仏様

佐藤清夫 鶴岡市 2003/3/24

我が家には、仏壇とそのうえに神棚がある。宗派は浄土宗であり、神様のほうはみんなと同じ天照大神である。神様と仏様を一緒に祭ってあるのがこの辺の普通の家であり、小さいときは神様と仏様では、どちらがえらいのかと考えたことがあった。
神様については、「古事記」に書いてある国を造る国生みの話があるそうだが、その一説を書くと、イザナギノミコトはイザナミノミコトに「汝が身はいかにか成れる」と問うと、「吾が身は、成り成り成りて成り合わざる処一処あり」と答える。そこでイザナギノミコトは「我が身は、成り成りて成り余れる処一処あり。故、此の吾が身の成り余れる処を以ちて、汝が身の合わざる処にさし塞ぎて、国土を生みなさんとおもう」というのである。

このようにして、日本の国を造った神様はえらいに決まっているが、その製造方法は人間の所作とほとんど同じである。そしてたくさんの神様を造り、ヤオヨロズノ神はこのようにして出来たのだ。また、農家を取り囲む自然はすべて神様になっている。火の神、水の神、田の神、山の神と今でも活躍している。
一方仏様は、中国からの外国文化として入ってきたのが奈良時代になる。仏教も神道も多神教であるためかあまり排他的にはならずに、仲良く共存してきたのだという。
法然がいうところの「ナミアムダブツ」を唱えることで極楽に行くことができるという浄土教は、平安時代爆発的な流行だったという。何が当時の人達の心をとらえたのかはわからない。

今の私の「ナミアムダブツ」は生活習慣のひとつに過ぎないが、そんなにうまい話があるわけがない。また当時の人達にしても本当に極楽浄土なる所にいきたかったのかどうか疑問である。今は無料では極楽には行けないことになっている。
私の周りの人達は先祖を大事にする。正月、お盆、春彼岸、秋彼岸は先祖様が帰ってくる日である。出来る限りのご馳走でもてなすこととなっている。春祭り、秋祭りが両彼岸に当たる。これは神事であり神様の行事である。
先祖様が帰ってくるという考えは仏様にはない。極楽浄土というはるか遠くに行ったきりである。あまりに遠いから帰ってこられないのである。これらのことから見ると、
仏様より神様のほうがより深く我が家に影響を与えていることと思う。
皆さんのうちでははたしてどうだろうか?

2003年度・庄内協同ファーム生産者集会
「栽培技術講習会を終えて」

改正農薬取締法の施行を直前に控えた3月3日(月)に組合員、協力組合員を対象に栽培技術講習会が開かれました。

忙しい春作業に入る前の1日を、茨城大教授、中島紀一氏と、県農業試験場、上野正夫氏をお迎えしてご講演いただき、もっと大勢の人に聞いてもらいたかった、という感想を持ちました。中でも、今までに数回機会を得ている中島先生のご講演は、改正農薬取締法について、とてもわかり易く、独特のコメントを含めながら説明して下さり午前中があっという間に終わってしまいました。
 法律がこうも性急に施行されることになった理由のひとつには、昨年の無登録農業問題があったのは、周知の通りです。禁止農薬にもかかわらず、それが全国的に流通し、
使用されていた実態が明らかになり、国民の食に対する信頼を大きく損なう問題に発展したためです。

主な改正点を紹介すると
1. 登録農薬の製造、輸入、使用の禁止
2. 薬使用基準に違反する農薬使用の禁止
3.罰則の強化
の3点があげられます。

又、この法律の施行に当り、新たに無登録農薬の製造や使用を禁止したために、安全性が明らかなものまで農薬登録を義務付け過剰規制とならないように特定農薬という仕組みを作りました。

ところが、有機農業を目指す農民が化学農薬の代替として、編み出して来た工夫や、病害中防除や除草の為に水田に放すアイガモさえも、特定農薬として登録しないと使用は禁じられるという奇妙な結果を生むことになり“アイガモも農薬か?”と大きな論争を呼び、新聞記事を賑わしたことは皆さんの記憶にも新しいことと思います。
危険農薬の規制強化のはずが、論議は意外な方向へ発展し、先生いわく“これは、農薬行政からの煙幕だったのではないか”とのことですが、お話を伺ううちに思わず、なるほど、とうなずいてしまいました。

そして、私達生産者側から見れば、農薬取締法は、生産者自身や、生産者の健康を守るものでは決してなく、食卓の残留ppmを守るものだという事が、よく理解できたと思います。
そして、慌しく結んだ中島先生の一言。“農薬のリスクについて厳しい認識を持ち、農薬を使わない農業の可能性を消費者と手を取り合って本格的に進めなければならな
い。それ以外に生き残りの道はない。”いつもいつも、にこやかな笑顔で厳しいことを平然と言ってのける中島先生の貴重な結論でした。

 盛り上がった午前中の講演の後、簡単な昼食をすませ、午後は、県の有機農業の研究に関する中枢機関を職場とする、上野正夫氏の講演でした。
これから、県がどのような形で有機農業を推進してくれるのか、その為に今どのような事を行なっているのか興味津々であっただけに、ちょっと肩透かしを食ったような物
足りなさが残りました。「有機農業の技術的課題とその対応方法」の演題に寄せた期待はさておき、担当者の講演の中から有機農業推進に対する意欲や、力強さが汲みとれなかったことは、とても残念に思いました。

 あれから約1ヶ月、季節は進み、吹く風の中にも華やいだ春の匂いが満ちています。
生命あるものすべてが動き出す、この春こそが私達農民にとって1年の始まりです。稲倉の前に置かれた水槽には、既に温湯消毒を終えた種もみが、徐々に水分を含みながら時満ちて出番が来るのを待っています。
 あれもこれもと一気に作業が集中する4月をまだ全開になり切っていない頭と体で追いかけて行きます。再び巡り来た春に感謝し、今年も無病息災で大地と向き合う仕事を楽しみたいと思います。

発行事務局 志藤知子


庄内協同ファ-ムだより 発行No.93 2003年2月

農民レポートから協同ファームと私

(草莽・がむしゃら・これから)  富樫 善之 羽黒町

一、草莽の頃 -農民の持つ歴史・哲学・賢治の農民芸術概論を経て-

老農からの聞き取り、庄内農業の転機となる乾田馬耕、これらの基盤を作ってくれた先人達への感謝を込めたリポート。
青年団・農協青年部・映画上映会等々、如何に作物を作るかは農民自ら決めるとのスタンスから、強制減反への反発・反対・拒否。そして“疲れ”が残った。
仲間内の実感は、-慰めあいから蔑みあいへ、蔑みあいから励ましあいへの発展―、反発心は人一倍強い我がまま者が地域・組織から抜け出て、体制内改革は無理と自らモデル作りを模索する。

二、がむしゃら -生意気さで人脈を拡げる-

反発や拒否だけでは駄目、自分の作った生産物を自ら価格を付けて供給出来ないようでは、他を批判出来ない。産直の始まりである、今にして思うと無茶苦茶でした。生産物を満載した車が高速道でエンコしたり、都内の配送で道に迷ったり。交流会も多種多様で夜も更けてどこの部屋で寝るのかと聞くと、喧々諤々の議論をしているすぐ隣の板の間に毛布を被ってくれとの事、ゆっくり寝むれたものではないので、また起きだして議論に加わったり、まさに朝までバトル状態でした。最初は唖然、でもこんなものかと交流(武者修行?)を重ねると、三里塚・水俣等の全国区の運動を通じて人脈ができました。

三、そして -もじゃ・もじゃの議論の後に-

 各メーカーの餅を食べ比べて、これなら自分らで作った方が良いとの結論。各10万円ずつ出し合って、餅の加工場を作った。それから、20年程品質を安定させ、品目も増やし他に、麦・豆の加工とメンバーのおこし・ヘチマ水・漬物とバリエーション豊富になった。20代の頃、中国農村に学ぶツアーを組んでいた頃の諺にある“一本の蔓に、多くの実が成る”そんな状態です。

四、これから -どんな絵を描けるか-

我がままが集まって、組織を作り運営をやって来ました。メンバーの体力も無理が利かなくなりつつあります。無登録農薬・産地表示・スローフード・ガット等々目まぐるしい動きです。今の状況は、より根源的な所を問われているように思います。
バブルが去り、市場原理優先にも翳りが見えて、もっとルールを明確にしながら、経験知を加えるしかない状態です。
こんな状況の中の日本・山形県庄内で“食べ物”を作ってゆくとはどんな事柄なのだろうか。現地点から先を読まなければ成りません。

 かって、京大の今西先生が先の読み方について、論じておられました。それは、まず過去に意識を飛ばし、そこから現在を通じてその先を見据えるというものだ
ったと思います。この手法をここで活用すると、まず、学生時代に強烈な刺激を受けた、敗戦後の日本の食糧をどう確保するか、当時の石黒農相を中心に検討していたグループがあり、分野毎に研究が引き継がれていて、私は“傾斜地に於ける食糧生産“をライフワークにしました。
人間にとって必要な蛋白源を魚類と家畜(穀類を餌として)に求めてきました。この供給は逼迫して来るのが明白です。
今が再出発の時期なのです。その形として、自然保護団体の研究会でのファームメンバーのパネラー発言「自然と供に在り、継続してゆける形態は社会構造上もコストの面からも、評価されうるものだ」があります。

私の足跡をたどると、インドネシアの開発輸入の現場研修一年、タイのモデル農場(オランダの支援)、ヒィリッピンのデルモンテ農場と加工残滓を活用した畜産、シベリア極東部、中国黄土地帯と南部農村地帯、朝鮮半島の状況とテーマを“生産の形”として見て歩きました。
益々、月山の山麓部での生産の重要性に確信を深めています。
 長期的には、木の実(胡桃・銀杏)中期的には発酵食品、短期的には雪の下でも育つ作物を入れた2年3作(例:豆・麦・赤蕪)とこれらの加工品。道は遠いけどイメージは出来ていて、技術を積み・土地を増やして、皆さんの目にも後5年あれば理解して頂ける一個の作品としてその形を現してきます。

長いようでも短い時間でしたが、やっとここまで歩いてきたというのが実感です。
中国の賢人の言葉に“終わりを恐れる事なかれ、始まりを持たざる事を憂えよ”と励ましてくれています。


庄内協同ファ-ムだより 2003年1月 発行 No.92

スケッチ 夢を見れるのは幸せなこと

藤島町 志藤 知子

~自然豚舎が建ちました~

 韓国自然農業と出会って以来、いつかはとあたためていた自然豚舎がようやく我が家の地続きの一角に、その姿を現しました。採光と対流を考えた踏み込み式の豚舎は、屋根はカマボコ型、南向きの天窓を備え、両側はカーテンのみ、シンプルな造りですが、敷料の発効熱のせいで、庄内の厳しい冬でもホカホカと暖かく、吹雪の日以外は換気の為にカーテンをあげています。従来の豚舎に比べ、とても明るく開放的で飼育されている豚も、元気に走り回って、まるで遊んでいるかのように見えます。
 この豚舎の一番の長所は、糞尿処理の必要がない点です。糞も尿を敷料の中に吸収され、良い状態で発酵が進めば、その何割かは豚が餌として食べる事が出来るようになるということです。
 ちなみに、この豚舎の建坪は90坪、一区画8坪の豚房が東西に10並び、片側に通路があります。

~白豚から黒豚へ~

 一昨年から、黒豚の導入を始め、5頭から始まった母豚が40頭を超えるまでになりました。産子数が少なく、育成にも時間がかかり回転率が落ちると言われている黒豚をあえて導入したのは、それだけゆっくりとしたペースで養豚ができると考えたからです。回転率の低さは、白豚よりも、市場評価が高いという所で補えばという計算なのですが、高い評価を得る黒豚を育てるには、又、相当の技術が必要なことを改めて経験しています。肉質の良い美味しい黒豚を、自信を持って出荷できる体系を探ることが今年の目標になるのでしょうか。近い将来、遠くに住む皆様にも、安全でおいしい黒豚をお届けできる日を夢見てできることからひとつずつ頑張っていきたいと思います。

~夢を見れるのは幸せなこと~

 歳を重ねても臆病にならず、心身の衰えも考えず年々新しいことに何かひとつは挑戦しないではいられない夫の行動力を不思議な目で見ています。“今年はもう55才なのに”が“まだ55才”なのです。“あと10年は頑張れる”が何年も前から続いていて一向に、9年、8年にならないのです。
 でも、よくよく考えてみれば、じっとしているより何かに向かって行動できることは幸せなことです。ハラハラ、ドキドキし、時にはため息をつきながらも、新しいことの結果を見届ける楽しみも生まれます。何年か先の定年に向かってカウントダウンするよりも設定しきれないゴールに向かって駆けていくことができるのなら、二人揃って行けるなら、それ程の幸せはないのかもしれません。

~今年もよろしくお願いします~

編集局から

 私達の農産物を食べてくださる皆様に支えられて、世情厳しい一年を何とか過ごすことができました。皆様のご期待に沿うべく今年も組合員一同皆様との様々なふれ合いの中で、伝え合わなければならないことをしっかり確認し合いながら進んで行きたいと思います。
 人の体にとって安全であること、相互の信頼のもとに安心できること、そして環境にも優しいことを変わらぬ目標として今年も頑張りたいと思います。
 本年もよろしくおつき合いくださいますように。


庄内協同ファ-ムだより 2002年12月 発行 No.91

「丸い餅と五木寛之」の話

鶴岡市 五十嵐良一

 私達の(農)庄内協同ファームでは、米の収穫を終えた土色の圃場に、点々と白い、白鳥が舞い降りた頃から本格的な餅の製造が始まります。
 減反への反対運動の過程でやり始めたもち加工も、20年近くになりました。我家の稲倉(農作業場)で、仲間とまきを持ちより、釜で自分達のもち米を蒸し、数台の家庭用もち搗器で板もちにしてから20年。
 昨年、ようやく自前の土地と有機認定を受けた自前の工場で有機栽培のもち米も「餅」加工することが出来ました。

 ここ庄内では、正月はもちろん、丸もちにして保存し、焼き、調理する文化圏?です。
 最上川をはさみ、南北で2万町歩、2万町歩で収穫されたお米が酒田港からの「北前船」で、関西との往来が丸もち文化の定着と言われています。
 関東以北で、丸もちですごすのは、庄内地方だけなのかもしれません。県内でも妻の実家(月山の東側=内陸地方といいます)は、切もち文化で暮に、家族皆で、丸もちやお供えの鏡もちをこしらえる儀式?は最初、興味深げでした。私も、子供の頃、新聞の4コママンガのもちが四角いのを不思議に思った記憶があります。それが私だけではなく、丸もちと切もちの文化圏の違いを文にした、作家もいてうれしかった事をもち加工の作業をしながら思い出し、今回のファーム便りに載せる事にしました。

 それは、五木寛之著 日記 -10代から60代までのメモリー-(岩波新書刊)という本です。抜粋してみると、20歳の日記(1953年) 1月3日(九州の餅と東北の餅について) 昨年の暮であった。きっかけは何だったか忘れてしまったが、餅と言うものは大体丸いものであるか四角いものであるかが問題になって数時間にわたる大論争を巻き起こした事があった。
 俺は餅と言うものは日本中どこでも丸いものとばかり思っていた。所が、東北では、関東もそうらしいのであるが、餅は本来四角くて平らなものとして認められているらしいのである。もっとも東北でも小松君の庄内のように丸い所もあるらしいが、大体において四角いのが普通であるらしい。「ぢゃ君達は餅という単語を聞いて四角な形を連想するのか」と俺が、至極馬鹿気た質問を放ったのに対して井上君等が、「そうだよ、勿論四角さ」と言下に答えて俺のドギモを抜いたものだ。所で井上君も「それぢゃ君達の雑煮の中に入っている餅は丸いのかい」とたずねて「当たり前だ」と俺が答えたのに「へえ」とたまげてしまったのだからどちらもどちらである。僕等は朝鮮でも丸い餅を食い、九州でも丸い。餅と言えばあの美しい形の、「ふっくらとした丸味に非常な親しみを覚え、」餅とはこんなものだとばかり思っていた。 四角な餅が存在すると云う事は僕等にとっては脅威であった。
 知らないと言う事は恐ろしいものだ。自分等の世界史しか知らないと言う事は餅一つについてもこの通りである。 我々は方々自分等の住んでいる世界を中心にしてものを考え、恐ろしい錯覚や誤解に平然として安住してる事が、相当に多いように思う。みじめな生活の中にひたっていると、そのみじめさが当然のように思えて来るのだ。 新しい事を知ると言う事は我々の物の見方や生き方に決定的な影響をあたえるものだしそこから進歩も発展も生ずるものだ。

 

 私達の法人でのもちの加工は、丸いもちの方が数多く出荷されています。もし、この庄内が関東以北丸もち文化圏でなかったら「こんな形で正月用のもちを加工してこなかったかも。この文化を伝え続けた、ご先祖様に感謝しなくちゃ。」笑いながらの仲間ともち加工の20年目です。

スケッチ

鶴岡市 小野寺 美佐子

 庄内の地にも25日夕方から綿のような雪が降り始めました。夕ぐれ時の木々に積もった雪は、まるで白い花が咲いたようで
幻想的な世界をつくりあげています。
 夜半に入り、綿雪が細雪に変わりました。音もなく降り積もる様は、「雪の降る町を」のステージになった町らしく、絵のような美しさです。こんな美しい景色を産み出す自然も一度荒れると、一寸先も見えない地吹雪に変わるのですから、自然の力は脅威です。2002年もあとわずかで幕を下ろします。 私なりにこの年を振り返ってみれば、一向に回復の兆しの見えない、経済と社会の不安感は今までになく、殺伐とした時代に映りました。

 農家にとっても、狂牛病の騒ぎがやっと下火になったと思ったら、農薬問題、秋にはひょう害や天候不順等、自分の力ではどうしようもない現象に悪戦苦闘の一年でした。 私自身も年代的に、体調の悪い年でしたが、悪いことばかりではありませんでした。仕事は、+、-プラスでしたし、体調の思わしくないのが幸いして、近所の人達の協力を得ることが出来ました。また、悪い年だといわれていたので行動を慎んでいた割には芽の出ることもあり、やはりプラスの年だったのでしょうか。
 この間、2003年を迎えるにあたって、来年の運を占ってもらいました。(この占い師さんよく当たんです)私の人生来年からバラ色ですって!
 特に仕事運がいいとの事。よし!今まで押さえていたエネルギーを全開にして、来年からは精力的に動きましょう!
 それでは皆様よいお年をお迎えくださいませ。


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