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庄内協同ファ-ムだより 2002年2.3月 発行 No.83

先月2月16日土曜日、庄内協同ファームでは2002年生産者集会を行いました。アファスシステムを導入してから始まったこの集会は、今回で2回目を迎えました。
今回のファーム便りは、生産者集会の模様と、その中で行われた講演会の話を、皆様にお伝えしたいと思います。

~2002年生産者集会~

集会には、生産者約30名参加しました。最初に、環境管理責任者である齋藤健一より2001年度アファスシステムの反省と課題が伝えられました。はじめに、BSE(狂牛病)、雪印食品問題、食品表示への不信感、安全性への不安等の消費者が、気にかけている食に対する不安にふれ、そうした不安を少しでも取り除く方法は、情報の公開が必要だという事を、生産者と再確認をしました。
次に、アファスシステムの目的・目標の達成度の報告をしました。目的・目標は、今年度の目的・目標は、ほぼ達成しており、引き続き継続をしていく事を確認しました。
まとめとして、消費者に情報公開を迅速にする為、作業日誌の記帳を早めにし情報集約が必要である。それと同時に記帳により農業経営の改善の為にも活用して欲しいという事を伝え、反省と報告を終えました。
続いて生産者を代表し、2名の生産者から2001年度の実践報告がされ、休憩を挟み、中島紀一氏より講演して頂iきました。

情勢激変下の戦略論
「崩壊の時代」に生きる普遍的庶民像

茨城大学農学部教授  中島 紀一

激変する時代

結論から言ってしまえば、2002年の状況は数百年単位の激動が始まってしまったと言えるだろう。ニューヨークの同時多発テロによって、時代の方向性は極めて鮮明になってしまった。マイカルの倒産、ダイエーの事実上の倒産、kマートの倒産、ユニクロ現象の一般化とユニクロの自滅といったことが毎日のように発生する。景気は循環的に動くと言われてきたが、現在の景気動向は循環的景気動向ではなく、構造的崩壊であり、恐慌的状況と言えるのではないか。

1929年の世界大恐慌と同じような状況になっている。1930年代の大恐慌は経済危機を戦争で切り抜けたが、現代で世界戦争が始まれば地球全体の崩壊が起きてしまう。これからは、地域紛争が増大し、途上国のいくつかが潰れる。さらに先進国のいくつかも潰れなければ解決がつかない状況に向かっている。
こうした激変する時代状況の中で、日本は本格的な空洞化が始まり、消費だけがある国家となってしまった。タンス貯金が無くなれば、日本は終わりとなる。「構造改革」は混乱を拡大深化し、成長理念下での崩壊は悲惨な共食い競合を創り出してしまう。しかも、こうした時代の流れは止まらず、政策的に止めることが出来ない時代に入ってしまった。

こうした時代状況の中で、政策・政治・運動の意味の転換が必要なのではないか。雪印食品の問題では、言葉=理性の信頼が崩壊されてしまったし、日本の生協と農民の運動がここ数十年で築き上げてきた「安全な食品は日本の大地から」というスローガンは完全に解体してしまい、こうした運動が何であったのかが問われる事態になってしまった。「安全性と環境保全のために」は「生産、加工を海外に移転した方が良い」とする発言がされ始めている。こうした経済、農業の状況をみると、日本の農家は基本的に崩壊状況にあると言えるのではないか。

崩壊的現実を厳しく見つめることから始まる21世紀の農業

こうした経済の崩壊状況によって、消費者の輸入品への拒絶感はほぼ壊れてしまった。消費者は、安全性には目もくれず、価格の高い物は買わないという消費動向になっている。従来は統一の卸売り価格で農産物価格が決まってきたが、野菜の価格に見られるように、中国野菜によって価格が決まる時代の到来になってしまった。輸入農産物は契約価格で決まり、過剰流通時の価格はせりではなくすべて入札で決まり、価格はすべて下がっていく。

こうして、農産物の雪崩的輸入は開始され、農産物の取引の基本は、輸入品の商慣行に変わっていく。国が育成しようとしてきた産業型農業は、ここにきて深刻な行き詰まりをみせている。しかしながら、産業型農業が行き詰まる一方で、直売所、女性起業などの生活型農業、地域社会型農業はすこぶる元気だ。こうした農業の担い手の中心は女性と高齢者だ。そこで、崩壊の時代を庶民はどのように生きるのかが問われてくる。
芭蕉の句で、「夏草や、強者どもが夢の跡」という句は、庶民の視点からの句ではない。国が破れても、豊かな地域と豊かな暮らしと豊かな農業と自然は残るのだ。

環境、生活、地域重視の農業戦略 ~より農業らしく、田舎らしく~

新しい時代の理念は、「あまりお金を掛けずに豊かに暮らせる地域社会」と言えるのではないか。農業の世界は、「お金がなくても暮らしは出来る」社会ではなかったか。お金の無い暮らしは貧しいのだろうか。お金が無くても豊かな暮らしは可能なのではないかという価値観の変換が必要なのではないだろうか。都市においても、有償ボランティアや地域貨幣への取り組みが始まったり、労働時間を減らし、労賃は下がるが首切りを回避し、労働を共有するワークシェアリングに取り組む企業が増えてきている。

農業と農村は、もともとお金が無くても暮らせる世界だった。都市は労働のすべてを賃金に換えて買い食いをして暮らす世界だが、農家は暮らしに必要なものは自分達で創って暮らしてきたのではなかったか。そうした世界、暮らしの拠点として庄内協同ファームを創造してゆくことを期待したい。お互い、お金から距離を置いた世界を構築しよう。日本農業の論理的構造をそうした方向に変革していこう。

大量生産=大量消費からの脱却と良質少量生産=良質少量消費への移行という方向が崩壊的現実後の農業のイメージとなるのではないか。環境保全型農業から環境創造型農業へ。産業型農業から地域創造型農業へ。買い食い依存型生活様式から自給自立型生活様式へ、が崩壊の時代に生きる普遍的庶民像であることを提案し、私の講演を終わります。

要約者 富樫英治

スケッチ

藤島町 志藤知子

今年の庄内は例年になく雪どけが早く、私の住んでいる里山にも、しっかりとつぼみをだいたふきのとうが芽を出しています。
 この季節、私の住む村の主な仕事は、柿の剪定作業です。雪が消えたばかりの地肌は、どこかでこぼこしていて、とても美しいとは言えないのですが、春の気配を感じた草や、地中の生き物たちが、ムクムクと動き出しそうな気がします。そこら中に春の息吹が漂う仕事始めです。
 顔を出したばかりの湿った大地の上に立ち、柿の木を見上げながら、仕事をしているうちに、体もだんだんと冬の眠りから醒めて、春をまとっていきます。やわらかな日差しの中にも、時折冬の名残の膚寒さが吹き抜ける木立の中で、若葉の頃を想定しながらの作業は、春の繁忙期までの肩ならしという所でしょうか。

 1年の始まりのこの季節にあって、食べ物の生産に携わる私の頭の中によぎるのは、今多くの人達が感じている食に対する不安です。狂牛病問題はもとより、食べ物を選ぶ手がかりになるはずの食品表示が、実は信ずるに足りないものだったという事実は、大きな絶望感を以って人々の心から“信頼”の二文字を奪いました。あってはならないことです。一部の不心得な人達の行為によって、食品や農畜産物全体に、区別なく、不信感が及んでしまったことは、とても残念なことです。
 そんな中にあって、私達生産者に出来る事、それは、農産物の履歴をはっきりさせておくことです。自分のどの圃場で、いつ、どんな作業を、どんな資材や、器具機械を使って行ったかを細かく記録に残しておくことです。

 幸い私達は、認証を取る為に三年前からこの記録に取り組み、慣れない記帳もようやく習慣として定着しつつあります。作目毎に、栽培計画から実績、保管や出荷に至るまで、検索できるしくみになっています。記帳にさく時間はかなりのものになっていますが、安全を提供する為の作業は、生産者としての責務という考えに立ち、各々が頑張っています。
 安心、安全にこだわっての食べ物作りに励むに日々の努力がまっすぐに食べる人に届くよう、あたり前の事があたり前に行なわれる世の中であるように、と願わずにはいられません。
 巡り来る春も迎える度に、体の底から湧きあがってくる百姓としてのエネルギーが、自然とうまくかみ合って、今年もまた、出来秋を迎えることが出来ますようにと祈るばかりです。


庄内協同ファ-ムだより 2002年1月 発行 No.82

はじめまして

余目町 中村公明

新組合員になった中村公明です。よろしくお願いします。
昨年まで5人でJファーマーズ余目という組織ををくり米作りをしていました。
一発除草剤の一回きりの栽培でしたが、一年一年が病害虫の被害が心配でした。木酢液の散布で何とか乗切ってきました。
その田からの生産物は安全、安心、うまいと思っていますが、果たしてその圃場を維持、継続また今以上に自然な状態でもっていくことが出来るのか。
和牛5頭の堆肥(ワラ+モミガラ+糞)を春に散布し、元肥の減量あるいは元肥無施用で栽培していますが、5年10年と経過後その圃場の状態がどのように土壌変化してゆくのが心配なところです。ただ、堆肥を大量に投入を続けてゆけば維持できるのかそうしたところ、今回の1月19日に行なわれる土壌分析の技術講習会は楽しみにしているところです。これから有機米、除一米を作ってゆく上での問題は山積ですが、自分としては協同ファームのこれからの活動に期待をしておるところです。皆さんからいろいろ指導をいただき、経営面、技術面に反映させていきたいと考えております。

これからの農業は、環境面を重視した方向に行くのは間違いない事だと思いますが、そのしわ寄せをすべて生産者が責任を負わなければならないのは、行政サイドの怠慢というべきでしょうし、両方の考えを総合的にかみ合ったところに本来の環境重視型の農業経営が生まれて来るように思います。生産者のみが走りすぎ、また行政が政策を押し付ける形での問題解決ではないように思います。


庄内協同ファ-ムだより 2001年12月 発行No.81特別号

夢はまだ一次発酵

2時間の家出

夢はまだ一次発酵

「あんた、この家の何が不満だなだ!」夜もふけた茶の間の隅で、怒り口調の母が言った。後継ぎという運命、自分の将来、好きな人のこと、結婚の障害、考えても悩んでも答えの見つからない問題に、頭の中がパンクしてしまいそうだった。「何もかも不満だっ!」そう叫んだと同時に、太陽が沈むのと一緒に就寝している祖父が、安眠を妨害されて、プリプリ怒って部屋から出てきた。「お前だぢうるさぐで、寝らんねー!」その言葉で、私の頭はプツンと切れた。「こんな家、出てってやるー!!」まだ肌寒い4月の夜空の下、勢いだけで私は家を飛び出していた。大学3年生、私は二十歳になったばかりだった。まさか、この自分が家出してしまうとは。我ながら動揺してしまった。思いの他、外は寒く、こんなことなら上着と財布くらいは用意しとくんだったと、すぐに後悔したが、出たからには後には引けない。とりあえず、近所のコンビニまでいこう。「実は家出をしてしまって…」訳を話して、店長に20円を借り、高校時代から付き合っていた彼氏に電話をして、迎えを頼んだ。彼が迎えに着いた頃には、もう日付が変わっていた。「ノリが思ってることきちんと話して、話合ったほうがいいよ、家まで送っていくから」彼氏にそう言われ、渋々家に帰ることにした。

家族会議酵

 家では、重苦しい雰囲気の中、両親と私とで家族会議が開かれた。「二十歳にもなってこんな子供みたいなことをして」と父がしきりに言っていた。何が不満なのか言ってみろといわれ、確かに不満は山ほどあるのだけれど、最近感じ始めた自分の中の息が詰まるような苦しさの根源は何なのだろうと、その時になって改めて考えてみたのだった。
 山形県の米どころ、庄内平野の稲作専業農家に二人姉妹の長女として生まれ、幼い頃から後継ぎを期待されて育った。「あたし、農家を継ぐよ」そう言いさえすれば、家族が安心することを子供心にわかっていた。「女の子なのにえらいね」いつもそう誉められた。高校までは自分自身それに満足していたのだ。それが、大学3年となり、周囲の友達が見なれないスーツ姿で就職活動をするようになって、自分には関係のないことなのに、気持ちばかり焦るようになっていた。私には始めから、農業という職業の選択肢しかなかった。それがあたりまえだと思ってきたけれど、本当にそれは自分の意思で決めたことなのか?家の期待に添うように選んできただけではないのだろうか?農業はする、でもいったいどんな農業を自分はしたいのだろうと正面から考えだしたのは初めての事だった。
稲作とは違う自分らしい農業を見つけようと、手当たり次第本を読んだ。先生に相談してみた。とにかく今目指す目標がほしかった。しかし、焦る気持ちが強すぎてうつ病のような状態に陥ってしまっていた。息苦しさの原因はもうひとつあった。彼氏のことだ。高校時代からの付き合いで、いずれは結婚したいとぼんやりと考え始めていた。母にそのことを言うと「彼がすごくいい子なのはわかるけれど、一人っ子じゃ家に婿にはこられないんだから諦めなさい」と言われた。「じゃあ、あたしの人生は好きな人とも結婚できないようなものなの?」憤慨する私に、心底気の毒という顔で「可愛そうに…」と母は言った。可愛そうに…そうかたずけられてしまったことに、怒りよりもむなしさが先に立った。私の力では抗えない江戸時代から続く農家、『富樫家』が壁のように立ち塞がっているのだった。

「いい子」卒業

 「俺がいつおまえに農業を押し付けたんだ」声を荒げた父が言った。すると、母が「父さんやっぱり押し付けてるよ、何も言わなくても感じるんだよ」と言い、父はしばらく黙っていた。そして、「おまえはどうしてそういい子でいようとするんだ」と言った。それを聞いたら、なんだかもう悲しくて、今まで自分が頑張ったり悩んだりしてきたことは何だったのだろうと虚しく思えてきた。親に対する怒りのような想いが溢れてきたが、冷静になって考えてみた時、なぜ自分はこんなにも期待に応える「いい子」でいなければと、無意識の中で思っていたのだろう、という疑問も感じた。そして、その答えとして、それは、自分に対する自信の無さだった気がするのだ。自分の考えたことが、たとえはったりだとしても、親のいうことよりも正しいということのできる自信が自分にはなかったから、だから、「いい子」でいることにとりあえず逃げていたのかなあと。それに、他にやりたいことがあったら、もっと早くに農業やらない、お嫁に行くと言えたはずなのだ。それが出来ずに悩んだりしたのは、やっぱり自分の中に農業が好きで、父と母のようにケンカしたり笑いあったりしながら好きな人と一緒に農業をしてみたいという想いがあったからなんだろうなと気が付いた。親を裏切るとかそういうことではなくて、自分自身の思いが、親に対しても譲れなくなってくる。それは当然のことなんだ、たぶんこれが、成長するということなのかなあと思った。自分の人生の責任を誰かのせいには絶対したくないから、だからこそ、できることなら、自分のやりたいような農業、生き方をしていきたいなあと思うのだ。
 この一件のおかげで、今まで心の中に引っかかっていたものがとれて、「私の人生は私自身のものなんだ」と言いきれるようになったら、かなり気持ちはスッキリした。父は次の日カゼをひいて、2,3日寝込んでいたが、寝込んだ理由はカゼのせいだけじゃないらしいよ。と母は私に笑いながら言っていた。今思えば、家出もしてみるもんだと思う。こんなことがなければ、お互いを理解することも無かっただろうし、自分自身の気持ちや変化に気が付かないでいたかもしれない。

長野に行こう!

 家出事件以来、少しずつ家を継ぐということではなく、自分がやりたい農業とは何かを、
考え始めるようになった。家は稲作を中心とした専業農家だったが、実を言うと米にはあまり興味が持てなかった。輸入米がどんどんと国内に入ってくるし、減反や青田刈りが相変わらず行われている。この現状に追い討ちをかけるように、米の価格は下がり、米の消費量自体が減少していた。米どころ庄内平野でありながら、米に見切りをつけて、花卉に力を入れる農家が我が家の周りでも目立つようになってきていた。米だけに執着していてはだめだ、何か違う新しいことをやらなくては!そして思いついたのが、ラズベリーを栽培することだった。まだ日本では栽培事例が少なく、デザートなどへの需要も伸びていきそうだった。ラズベリーのことを勉強してみたい。本で調べると、涼しいところを好むラズベリーは信州で少し栽培されていた。長野に行こう!八ヶ岳にある中央農業実践大学校へ行って、ラズベリーと花の実習をやってみよう!

 

 入学式は全員白がまぶしいつなぎを着用とのことだった。つくづく、スーツには縁が無いなあと思ったが、実践を重んじるこの学校の精神を感じるにはふさわしい伝統のような気もした。しかしながら、学校に果樹のプロジェクトは無く、ラズベリーを知る人も少なかった。学校は、私ひとりの為に担当の先生をつけて下さり、週に2回学校を出て、ラズベリー園をはじめ、りんご園、ブルーべリー園などの農家に実習へ行くことを許可してくれた。幸運なことに、学校と同じ原村に日本でも数少ないラズベリー専門の農園があり、一緒に作業を手伝わせていてだく機会を得た。農場主のおじさんはもともと農家ではなかった。違う仕事をしていたが、若い頃アメリカに農業研修に行った時に食べたラズベリーの味が忘れられず、定年を過ぎ夢をかなえるべくラズベリー農園を作ったのだと言う。整然と整備された園内を見ていると、自分はいつになったらここまで追いつけるんだろうと焦ってしまうと告げると、おじさんは「そんなに焦ってはいけないよ。たくさん経験してたくさん失敗してやっとわかることばかりなんだから。おじさんだって、もう10年近くここをやっているけれど、どんな肥料をやるか、いつ頃剪定してみるか、わからないことばかり、毎年挑戦しているんだ。だから、農業は面白いのだけどね」といって笑った。挑戦し続けるおじさんは、不思議と歳を感じなかった。おじさんの紹介で、ラズベリーをはじめとする、有機や無農薬などこだわりの果物でジャムだけをつくる、『ジャム工房とりはた』に山梨まで訪ねていった。訪ねた日はちょうどブルーベリーのジャムを作る日で、甘酸っぱい香りが部屋中にたちこめていた。ひとつひとつ手作業でビン詰めするのを手伝いながら話を聞いた。「数え切れないほど失敗したよ。こうすればもっとおいしいよなんてお客さんに教えてもらったこともたくさんあるし。十年経って、ようやくスタートラインに立てたかなあという気がするよ」独学でジャムづくりを学び、材料は自分が納得いくものを探し歩き、旬のものしか作らない。水や添加物を一切使わないその味は、こくがあって優しく、なんだか懐かしい味だった。
 ラズベリー園のおじさんもジャム工房のおじさんも、道なき道を切り開いてきた人たちだ。失敗を恐れてはいけない、失敗こそ先生。大切なことは夢を諦めない情熱をもつことなんだ。そう、二人に教えられたような気がした。

 11月になると、私達研究科は4ヶ月間の農家研修に出る。私は群馬のワイルドフラワーを栽培する農家と埼玉の観光農園に研修が決まった。花と観光、どちらも華やかで憧れる農業だ。研修中にできるだけ多くを学び取り、自分の実家でもやってみたい。そう心に決めて臨んだ農家研修だったが、研修を終えて思ったことは、意外にも「同じようにはできない」という思いだった。適地適作、農業はその土地の気候、風土、立地条件それらを克服しうまく利用してこそ成り立つもの。外ばかり追いかけていたけれど、私はもっと地元を知らなくてはならない。見飽きたはずの田園風景が、稲作には恵まれたみのりはぐくむ豊かな環境として思い出された。
 研修を終えて学校に戻ると、今度は卒論の執筆が待っていた。テーマがなかなか決まらず、苦し紛れに現代農業で見つけた「米パン」についてとりあげた。ラズベリーをジャムにして、パンとセットにして売ったらいいかなという安直な考えで、米をどうにかしようと考えたわけではなかった。ところが、調べてみるとこれがなかなか面白い。働く女性や単身生活者の増加で、手をかけずに食べられる米パンの利用される可能性はますます高まってきている。そればかりか、米の消費拡大や国内自給率の向上、減反地・耕作放棄地の水田利用、水田の持つ多面的機能の維持、学校給食への供給を通した農業教育など、今米を取り巻いているマイナス要因を一気に覆し、余りあるほどのパワーを持っている。それに、有機野菜を作ってサンドイッチにもできるし、雑穀や果樹を利用して雑穀パンや手作りジャムパンなどもつくれる。パン屋の店内でお米や野菜を売ったっていいじゃないか。米パンのお陰でなんて楽しい「農的生活」が出来るんだろう!ほわーん、夢いっぱいだ。でもこの膨らんだ夢は一次発酵(パンづくり的に言うと)にすぎない。この夢を現実のものとするか、夢で終わらせるかは、その後の自分の行動力にかかっている。お米はだめだと思って遠回りしてきたけれど、結局はお米に戻ってきた自分がなんだか不思議な気がする。

農家一年生

 今年の4月から、私は実家に戻り、農家1年目のスタートを切った。就農早々、5月に祖父が亡くなった。私に最もプレッシャーをかけ、そして、私が就農することを最も待ち望んでいたのが祖父だった。仕事と病院の往復でとても忙しい日々だったが、自分のいることで少なからず家族を助けていると実感できたことは私にとってはうれしいことだった。気が付いていなかったけれど、自分はこの家に、この家族に守られて育ってきたのだ。そして、これからは、自分が家族を守り支えていく立場なのだと感じた。だんだんと意識が朦朧としていくなかで、祖父は枕もとに私を呼び、はっきりとこう言った。「紀子、夢を持で。夢を持たなくなったら農業はつぶれる」と。祖父は私に、最期の最後に一番大切なことを教えてくれた。すごくおおきな何かを私はその時、引き継いだような気がした。
 農業で生活を支えていくということは、簡単なことではない。農産物の価格は決して高いとは言えないし、市場や天候に常に左右され、輸入農産物にも押され気味だ。どんな時代でも、農業はいつも厳しい状況にあったのだけれど、そんな中で、曽祖父は田んぼの開拓に、祖父は酪農と稲作の複合経営に、そして父たちは餅加工品などを産直する農事組合法人に夢を託してきたのだ。
 私がしてきたことはまだ何もない。ラズベリー園をつくることも米パンをつくることもまだ私の夢でしかない。でも、全ての仕事の始まりは夢をもつことからはじまるのではないだろうか。強力なサポーターもできた。私が家出をした時に、夜中にもかかわらず迎えにきてくれた、あの彼と来年結婚することになった。「のりの夢を一緒に叶えたい」そう言ってくれた。以前は反対していた両親も今は祝福してくれている。
 見渡す限り黄金色となった田んぼが風に揺れている。農業へ夢を託し、受け継がれてきたバトンを握り、私は今スタートを切ったばかりだ。


庄内協同ファ-ムだより 2001年12月 発行 No.81

すごい1年だったなーと思う今年もあとわずか。

代表理事 佐藤清夫

今年1年の協同ファームを振り返ってみます。近年暖冬のせいか、たいした雪もなく過ごしてきたのに、1月、2月の地吹雪はかなりの激しさでした。3月、組合員の作付け会議を拡大した生産者大会を催し、今年の庄内協同ファームの事業の大枠と方向付けが確認されました。6月、新加工場に引っ越し、事務所移転、7月には加工設備の移転と竣工祝賀会、竣工記念シンポジュウムを開催しました。その時にはたくさんの方々から励ましの言葉を頂き嬉しく思い、私達一人一人の決意が今まさに問われていく事になると思いました。

5月、6月は天候に恵まれ稲作や畑作物が順調に生育し、7月後半は気温が高く、ほとんどの作物の出荷が早まりました。8月になるとすごしやすい日が続き、だだちゃ豆は糖度の乗りも良く、後半にはアブラムシの発生が多く、唐辛子エキスを何度も散布しました。重い防除のホースを担いでの作業は辛いのですが有機栽培の為にとみんな頑張りました。9月の稲刈はカメムシの発生をとても心配しながらの作業ですが籾摺りの段階にならないと結果は判らなく、すくい取り調査をしたり地元の農協や生産組合組織に申し入れをしたりしました。
10月にはもう新加工場での餅つきが始まり、新しい環境での段取りや予測が呑込めずに苦労しました。11月12月には庄内協同ファーム餅製造の最盛期に入りました。
しかし世の中はとんでもない事件の連続で、アメリカの同時多発テロ事件は全世界の人々を震撼させ平和な世界が一夜にして崩れ去るのを目前にした事で、人間の存在そのものの在りようを考えさせられた事件でした。その影響で日本では倒産に追い込まれた企業が出ました。そしてアメリカのアフガニスタンに対するテロへの報復攻撃が始まりました。その報道をテレビで見ていると、人類の歩んできた道は進歩なのか後退なのか訳わからない気持ちと、悲しい気持ちになってしまいました。

そして今度は狂牛病(BSE)です。確かに食べる消費者の安全は守られなくてはならないのですが、後手後手に回った国の施策が牛を飼っている農家の苦しみを益々大きくしているのではと、苛立つだけでした。スーパーや生協では牛肉の販売高が急落したと嘆き生産者は風評被害があり、年を越す直前の今、泣くに泣けない状況に立たされていると思いますが、その責任は一体誰にあるのでしょうか。まさに日本経済の凋落と日本の政治体制の脆弱さが突出した年だったと思います。

そんな中でイチローと高橋尚子さんは日本人に夢を思い出させてくれたのではないでしょうか。救われる思いでした。自分を信じて日々の課題を克服し夢を達成する二人の生き方は、すがすがしい気持ちにさせてくれます。俺も頑張ろう、協同ファームも頑張ろうと。

今年もたくさんの協同ファームの加工品、農産物をご利用頂き本当に有難うございました。これからもどんな世の中になろうともこのような食べる人、作る人、まちびと、むらびとの良い関係を継続して頂きたいと思っています。身体に気をつけてお互い元気ですごしたいものです。よいお年を。

種を採る

鶴岡市 五十嵐良一

「基本的に稲は自家授粉をして種子を残すのだが、条件により花粉が数キロメートルも飛散し、他品種と交雑する場合があり、黒米の花粉が3km離れた地点で交雑し、ウルチ米種子の形質の中に10%程度認められたものがあり、又、モチ米の種子80数種調査のうち純粋種は23種のみ。」

先日開催された、「手をつなぐ無農薬、有機稲作農家」の全国交流集会「遺伝子組み替え育苗問題」分科会席上での報告です。br>
庄内協同ファームでは昨年より有機栽培の認証を受けた餅加工にも取り組みはじめました。私の有機栽培でわのもち60aも収量に課題は残したものの、42.5俵と27㎏、そして種籾用60㎏を残し、なんとか無事に収穫調整作業も終え、11月23日勤労感謝の日に例年どおりに「田の神あげ」をして家族で餅をつき喜びあいました。
翌日には、庄内協同ファームで稲作の栽培実績検討会を行い、有機栽培について種子消毒や育苗床土、育苗方法、そして合鴨水稲同時栽培、米ヌカボカシトロトロ層での栽培、米ヌカペレットでの除草、不耕起のトロトロ層紙マルチ栽培、有機肥料の肥効結果、食味値の分析結果など1年の成果を報告してもらい来年に向けての反省点、改善点、課題など話し合われまとめました。

私も春からの作付けに当たり課題を設けていました。もち米の有機栽培の種子を次年に備え自家採種してみるという事でした。JAS法では、採種も「有機栽培された種子を用いなければならないとあり、ただし書きがあって「通常の方法によって入手が困難な場合はこの限りではない」となっています。
しかし、何とか有機種子を自家採取したいと思い、昨年迄の種子消毒、温湯浸法57℃7分を60℃まであげ、浸種、催芽、播種を試しました。ところが、ひとめぼれ、はえぬきは、ほぼ完全に発芽したものの、でわのもちは8割に満たない程のまばらさで、催芽、播種のしなおしも考えましたが、なんとか田植が出来、収穫、そして採種にこぎつけました。

それでも、来年に向けての作付けは、細心の注意を払うつもりでも、ウルチ米の混入や、モチ米特有のウルチ米との交雑による「キセニア現象」の発現が心配です。br>
実は、平成5年の大冷害の年に「キセニア現象」という事で、でわのもちとはえぬきの出穂時期が重なり、交雑したモチ種子が農協より購入できなかった経験があります。
確かその時は、「逆塩水選」という形で、モチ種子をウルチ種子用の比重選を行い、浮いた籾を再び、低い比重で塩水選を行った記憶があります。あの時は隣県の他品種の種子を作付けした仲間もいました。ここ庄内では、例年になく早い地吹雪が舞い始めました。自然の摂理の中で思う様には歩めない、有機栽培の実際ですが仲間と共に、この場所で受けとめたいと思っています。


庄内協同ファ-ムだより 2001年11月 発行 No.80

新組合員の工藤広幸です

余目町   工藤 広幸

天気予報に雪だるまのマークがちらほら見え出し、本格的な冬を前に何かと気ぜわしい毎日を過ごしております。
鳥海山、月山は中腹まで雪で覆われ、田んぼには冬の使者、白鳥がえさを求めて、群れをなして飛来し晴天の日は素晴らしいコントラストを描いております。
今年から正組合員としてお世話になることになりました工藤広幸です。ナチュラルコープ横浜の皆様には、J.ファーマーズあまるめとしてササニシキを供給させて頂いてましたが、今年から庄内協同ファームを通して産直することになりましたので、今迄同様の御愛顧の程、宜しくお願いします。
私の経営内容を紹介します。

水田、自作地が5.1ha、受託地が6.0haで今年稲を作付したのが8.7ha。その内、庄内協同ファームに出荷する減農薬米が2.6ha(ササニシキ・ひとめぼれ)です。他に作業受託(耕起、代掻、田植、刈取)3.0ha、転作大豆が受託を含め4.0haでこれが稲作部門です。それに園特部門にハウスが650坪あまり、作っているものはトルコキキョウ、ストック、カスミソウ、それに3,000個の菌床しいたけ栽培です。

今年の作型は、カスミソウが田植えの終わった5月末から6月始めに出荷、6月下旬からトルコキキョウが現在まで、ストックが10月末から来年の3月まで、しいたけが11月末から4月までと1年中稲作とあまりかち合わないように出荷の栽培体制としております。
妻と二人、忙しい時には、シルバー人材やパートを雇用しながら毎日、『農業は金はなくてもリストラもなくていいの』と話しながら働いております。
11月始めに北九州市で開催された全国認定農業者サミットに参加してきました。全国各地から2000人の農業者が集い「くらしといのちを考える国際化の中の農業経営」をテーマに基調講演と分科会討議が行われました。農産物輸入問題(セーフガード、WTO)、狂牛病、コメ政策の見直し問題等、多岐にわたり日本農業の直面してる課題を考えさせられました。
国際化の中で農業も工業製品と同じで、大企業が地球規模で原料調達、加工システムを作っており自動車産業と変わらない状態になっている。東アジア(日・韓中)はいまや最大の農産物輸入市場に成長し、消費者がユニクロ戦略になびいてしまえば日本農業は生き残れないと講演があり、その対策としては生産者と消費者が互いに理解しえることが大事、顔の見える交流を通し消費者の安全を考えた農業をしている生産者との結びつきが重要との事でした。
私もなるべく農薬を使わないで米を作り、自然を大切に環境に負荷をかけない農業を目指し頑張りたいと思います。皆さんの食卓が家族の笑顔でつつまれる事をいつも考え日々の農作業に精を出しております。安全と安心、おいしさを求めて米を作り続けますのでどうぞ一杯といわず、二杯、三杯たくさんご飯を食べてください。

スケッチ

広報事務局 志藤 知子

藤島町の中心街を抜け、鳥海山の雄姿を望みながら少し行くと、我が新工場、庄内協同ファームの建物が見えてくる。グレーの外壁に赤い屋根、黒地に白抜きの看板,組合員が再びの夢をかけ構えた新工場である。
11月19日、私が向かったこの日、フルメンバーに近い季節従業員を迎え、夏の間は広々としていた駐車場には、所狭しと車が並んでいた。出社人数は45名。餅製造もいよいよ最盛期に入る。
始業5分前の朝礼、迎える人も迎えられる人も少し緊張ぎみのすべり出し。ロッカールームで作業着に着替え、7項目のチェック表に沿って、着衣の点検をする。各々の配置場所へ入ると、手洗いをし、更にアルコールで消毒を済ませ、作業開始となる。
人員の配置が無事に済み、各々の場所でスムーズに動き出した頃、餅の製造手順に添って工場の中を歩いてみた。
まずは事務室から一番遠い精米センター。各組合員が運び込んだうるち米、もち米が整然と積んであり、大きな機械の前で、担当の組合員が精米作業をしていた。

原材料が積んであるストックヤードを素通りして洗米、蒸米室へと向かう。
自動洗米機2台と、蒸し機が3台あり蒸し器からはあったかそうな湯気が立ちのぼっている。蒸し機から蒸し米が壁を通して次室へ押し出されてゆく。
壁の裏側へと、蒸し米を追いかけていくとそこは餅製造室。餅つき機が5台並んでいた。隣りあった2台で交互について、1ラインなのだそうだ。1台は、有事の時の備え、4台が休みなく動く頃は、餅つきも山場といったところ。

 

この時間は丸もちを製造していた。隣室から押し出されてきた蒸し米を計量し、杵つきのうすへ移し、つくこと1分30秒~2分。水を1滴も加えずもち米の水分だけでつく。つきあげた餅は、すぐに丸もち製造機へ入れられ、丸い回転板へ、球状の餅がポトンポトンとリズミカルに落ちてくる。それをまた、リズミカルに餅板に並べる人がいて、板を取る人がいて、棚に並べる人がいて、ラインに並んだ9人が各々の持ち場で1定のリズムを刻みながら、滞りなく仕事は流れてゆく。棚が餅で一杯になると冷蔵庫へと運ばれ、そこを抜けるとパック室へ出る。

餅製造室が男の持ち場なら、さしずめ、ここは女の戦場という所か。今年もベテラン陣の手の速さに焦りまくる新人さんが出るのかも。肩こりにはくれぐれもご用心。手詰めの作業は“慣れての業”。素早くきれいに形良く袋詰めができて1人前。1週間後、10日後の彼女らの仕事ぶりに乞うご期待。パックされた餅は金属探知機をかけた後に、シーラーをし、完成。製品はローラーにかけられ、次室の出荷スペースへ。いよいよ出荷の為のダンボール詰め。見落としがないか検品をしながらの箱詰めも最終チェックだけに気が抜けない作業だ。
ひと通りの作業風景を見せてもらって、事務室に戻ると、南向きの部屋は、晩秋の柔らかな日差しを受けて、ストーブもスイッチOFF。組合員が届けたストックの甘い香りが漂っている。
去年までの狭い作業場でひしめき合って働いていた喧騒から抜け出して、この広い場所での餅製造。身の丈に余る借財を背負っての再スタートだけに、人員を切り盛りする慌しさの中に緊張感がみなぎっている。組合員の意気込みに、従業員の頑張りがうまくついてきて、大きな力となりますように、と願わずにはいられない。
小春日和の帰路、晩秋の優しい陽気はそれだけで人の心を幸せにしてくれる。すっかりを雪化粧した鳥海山と月山が揺るぎないその姿で“頑張れ!!”と私達の行く手を応援してくれているように思えた。
前途、順風満帆なれ!!


庄内協同ファ-ムだより 2001年10月 No.79

こんにちは、石垣憲一です

余目町   石垣 憲一

私は5年程前から庄内協同ファームに準組合員として指導を受けたり、圃場見学に参加したり、今年から正組合員になりました。米作りを主にし、ハウス6棟にスットクとトルコギキョウ、減農薬・無袋の桃、5000個の菌床椎茸栽培、ずいき・アスパラ菜など野菜を少々作っています。
 土にまみれて働く両親の背中で育ち、「作物を作らんとすれば根を作れ、根を作らんとすれば土を作れ」と教えられ、長年、土作にこだわって農業をやってきました。特に、昭和の終わり頃に、化学肥料や農薬による土の変化に気づきました。また、我々の作る農産物が多くに人々の健康を左右する事を重く考えるようになり、平成元年から有機肥料・減農薬栽培に転換しました。
自然を相手に有機肥料100%になるまで、沢山の失敗を繰り返しました。長い間、有機栽培の難しさの克服と同時に良い有機肥料を求め、ようやく3年前から、なんとかやれそうな方法と納得のいく肥料を手にする事が出来ました。
農法については、木酢液(木炭を作るときに出る液)の使用に切り換えました。木酢液は薬ではないので、殺虫能力はありませんが、害虫や病気を近付けず、作物の成長を促し、床をよくする働きなど、研究者によって報告されています。農薬のような威力の無い分は、田圃を見回り、草刈、バイド(田圃の中に水路を作る)、水加減の調節など、人手で補い、作物と会話をし、一喜一憂しながら育てています。
 しかし、頑張っても自然の猛威には勝てず、一昨年はカメムシの害をかなり受けてしまいました。それでも沢山の方が、農薬で汚染された米より安心だと喜んで食べてくださいました。そんなお客様たちに助けられ励まされ幸せに涙が流れました。
これからも、よい環境の中で育て、安心して美味しく食べられる作物作りにこだわった農業をやっていこうと思っています。

量より質の楽しい農業を

稲の刈り取りを前に、実行組合の坪刈りが行なわれました。どこの集落でも毎年行なうもので、収量を競う行事です。自分の田圃の中で最もよく出来たところ、ここぞという自慢の場所を指定し、みんなで一坪(3.3㎡)の稲を刈取、収量を競い合うのです。今年も収量では最下位でした。平均収量630kgのところ、我が家は555kgでした。天候に恵まれたけれども、去年と同じでした。でも、籾の手触りは「さらさら」し「ビシッ」として稔り方はよく出来たようです。

私も以前はいつも上位に入賞し、何度も優勝しました。収量では負けまいと頑張り、工夫もし、自慢でもありました。ところが、安全で美味しい米を作ることが大事である事に気付き、栽培方法を変えてからは、優勝も上位入賞にも関係のない話になってしまいました。農薬・化学肥料を使用しない農業を目指すようになってから、農業が楽しくなりました。春、有機肥料を投入し、稲が必要な時だけ吸収し、木酢液で病気や害虫をよせつけないようにし、水のかけ具合で稲の生育を調整するやり方は自分に合っているようです。喜んでくださるお客さんの声はいっそう意欲を膨らませてくれます。

楽しい農業を後継者に

私が農業を始めた頃は、職業として夢も希望ももてる魅力がありました。ところが、米あまり、減反、米価安、輸入作物増大など問題が山積し、農業離れがすごいスピードで進んでいます。多くの若者は、外の産業に職を求めて集落から出て行きます。でも、視野を広げてみれば、食料は不足しているし、経済性や見た目を優先する現在の食料生産など問題だし、農業が担わなければならない大事な役割を考えた時、やりがいのある職業としてやっていける仕事だと思います。「農業のやりがいと楽しさを見いだし、それを後継者に伝えたい」と願って、息子を後継者に育てたいと思っています。
こんな石垣憲一をよろしくお願いいたします。

スケッチ

余目町 富樫裕子

庭の柿の実も色づき、鳥たちがさかんについばんでいます。庄内柿は渋柿のはずなのに、木の上の方はすっかり渋が抜けて、おいしくなっているのでしょうか。昨年の今頃は、舅が毎日腰に籠をぶら下げて柿もぎに精を出し、「裕子。今年のおまえの贈る分はどれくれだ!!」と私の友達の分も作っておいてくれた事を想い出します。今年の5月に、3ヶ月あまりの闘病生活を送った後、突然いった義父。あまりの忙しさにゆっくり悲しんでいる暇なんてなかったけど、私の好物のぶどうの品種もちゃんと覚えていて、食べきれないほど買ってきてくれたり、妙に細かい事まで気がついて、孫である2人の娘達をとてもかわいがってくれました。雪が降ってもう少し心にゆとりが出来たら義父と暮らした25年の月日を想い出したいと思います。

夫の担当の稲の方は、終盤にさしかかり、後は倉の中でお米にするばかり。私の担当のスットクの花は明日が初出荷で、これからが本番です。お互いに手伝いながら、今年もお正月まで忙しい日が続きそうです。


庄内協同ファ-ムだより 2001年9月 発行 No.78

農業に携わって…

余目町   今野 裕之

 今度新しく組合員になった、今野裕之です。稲作を中心に、大豆、野菜を少し作っています。稲は、約3.5ha作っていて、そのうち2.3haが有機栽培(転換期間中)で、残りが除草剤1回のみの減農薬減化学肥料栽培です。
有機は、種子消毒から全て農薬や化学肥料などを使わないので特に育苗段階での失敗が多く、今年も少し失敗しました。

 農業は「自然と共生」しているんです。人間がどうあがいても自然にはかないません。人の考えで、虫が多い時には「あれ」、生育が悪い時には「それ」、生育過剰の時には「これ」といった具合に色々な農薬や化学肥料などを使うのですが、使用直後はそれなりに効いた様に見えても、結局は同じになる様に私の目には見えます。もう少し自然にまかせ、農薬や化学肥料に頼らない農業をみんながしていければなあと思うのです。

 そういう私も農業をやり始めてすぐから有機栽培はしていません。最初は、慣行栽培で農薬も化学肥料も使っていました。私の友達がふとした事から合鴨農法を始めました。田んぼに鴨を放し、虫を食べてもらい、足で土をかき回し草が生えてこないようにする。かわいく、いくら見ていてもあきませんでした。

 「こんなおもしろい農法があったのか、よーし自分もやってみよう」と思いました。実際にやってみると、鴨たちはかわいく、田んぼのいろんな所をつつき虫たちを食べに元気よく泳ぎ回るのでした。しかし、鴨たちは平均的に田んぼの隅をきれいに泳いではくれません。ですから所々草が生えてきます。その時は鴨たちと一緒に田んぼに入って草取りをします。合鴨農法をやり6年目になるのですが、やっと土が出来てきたのかなあと思います。前より有機肥料の量も少なくて済みますし、稲も丈夫に育つ感じがします。

 人は、食べなければ生きていけません。そして、健康に過ごせるように色々な物を食べます。そうして長生きできるのだと思います。「こんなうまいものをもっと食べたい」と皆様から思えるものを、まだまだ未熟な私ですが作っていきたいと思いますので、よろしくお願いします。

スケッチ

三川町  菅原 すみ

9月にしては朝晩肌寒いこの頃、鳥海山は例年より3週間早い初冠雪となり、秋が駆け足で通り過ぎて行くように感じる。
9月11日に始まった稲刈りも、もう少しを残すだけとなった。ザクッザクッ、コンバインが作業し易いように田圃の隅を鎌で手刈りをしている音だ。今年は穂が重い、籾もムチッとしていて稔り具合もいいぞ。
コンバインは30aを50分で刈り終え大きな袋に入った籾がライスセンタ-に運ばれていく。乾燥、調整作業の3日後お米が出来あがった。1年間の米作りが数量と品質に表れる緊張の時。出来たての新米を持って来て食してみる事にする。

水加減は新米も古米も同じ量でいい。昔は稲を自然乾燥にしていたので玄米に含まれる水分が多く、新米を炊く水の量は減らすと言われていたが、現在は機械乾燥で水分は一定に仕上ている。又、米の保管も湿度を一定にして保管しているので新米も古米も同じなのだ。炊飯器がシュ-シュ-音をたて、2人と160羽の合鴨達で頑張った無農薬栽培のひとめぼれが、ごはんとなるクライマックスを迎えようとしている。家中に広がる幸せな匂い。

鴨達は、稲には害虫となるドロオイ虫、イネミズゾウ虫等を食べてくれて、一生懸命に動き回り土をかき混ぜるので草も生えにくかった。8月に入ると日中は暑く、朝晩は涼しい日が多かったのでイモチ病の発生もなく、台風もそれて自然が大きく味方をしてくれた。
8月末、稲穂が頭を垂れ始めるとヒエが稲よりずっと背丈を伸ばし、黒い種をつけ、あっちこちに目立ってくる。鴨達が除草しきれなかった株ヒエだ。

無農薬で稲を栽培するという事は周囲の人に格段の配慮をしなければならない。害虫の発生源になってはいけないし薬剤を使わない分、気を使い時間を使い、圃場を見守り、それなりの手段をこうじなければならない。ヒエのように一目瞭然の雑草だらけにしておくというのは、いかにその圃場の管理が行き届いていないかを示しているようなものだといつも夫と口論になる。
除草剤を使っていないからといってこの黄金色の美しい風景の邪魔はしたくない。ともかく最後の闘いだ。全ての田圃のヒエ取りを終え、稲刈りに臨んだ。

ピ-ピ-、ごはんが炊きあがった合図だ。最後の仕上げ、蒸らしを終え蓋をとる。

プ-ンと甘い新米の香り、ツヤがあり、ごはん粒が立っている。

シャリ切りをする要領で混ぜて仏前に供えるごはんを盛り、我慢出来ずちょっと味見、

「…‥おいしい」。1年の思いと共にのみこんだ。

夕食時、夫は雄弁だった。わかるわかる、安堵と喜びの束の間のひととき。

大禍もなく終えられた今年のお米作り。自然に感謝です


庄内協同ファ-ムだより 2001年8月 発行 No.77

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志藤知子 藤島町

 うだるような夏も終盤を迎える8月の今頃。我が家には、毎年、アジアの各地から農業をそれもオーガニックを心ざす青年達が研修にやってくる。栃木県にあるアジア学院の学生として、春から日本に渡ってきた彼らは、片言の日本語で、片言しか英語のできない我が家にショートステイする。

 家の中の間取りの紹介、家族の紹介、そして仕事の手順などは、目で理解できることも多く、さほど不自由を感じないで、何とか意志を通じ合うことができる。多少の単語で何とか頑張ることができる。それでも普段使わない英語は、一度覚えたつもりでも、すぐに頭の中から消えてしまっていて、1つの質問をするのに、つい頭の中で文章を組み立ててからおもむろに話しかけることになるので、沈黙の時間が流れてしまう。

 農業のことに関する専門的な質問などには、こちらもつい手間どってしまって、夫と四苦八苦。手元にあるものを並べて説明しようとしたり、ジェスチャーで補ったり、暑いさなかますます汗が出てしまう有様である。通訳のいない国際交流は、本当に冷や汗ものである。

 それでも、今年インドからやってきたカペさんと、ミャンマーのサイヌーンさんは一生懸命、枝豆の作業を手伝ってくれる。朝は、五時半で”グッド・モーニング”と元気よく前晩の打ち合わせ通りに起きてきてくれるし、ひと通り仕事を説明すれば、自分のポジションにこだわらず、次々と滞っている部分に手を貸してくれる。言葉は、すっきりと通じなくても、彼らの実直さは見てとれる。

 カペさんの作業帽は、麦わら帽子、サイヌーンさんは、一枚の布をかぶる。アラハトさんのスタイルに似ていますね。といったら、にっこり笑った。タイに近い地方は、皆、こういうふうにかぶるのだと教えてくれた。

 二人とも既婚で、国に残してきた家族の写真を大事そうに抱えている。日本に比べれば、まだまだ貧しい自分の国の、これからの農業を模索し、少しでも、日本の技術を持ち帰ろうとする彼らの意欲には、毎年のことながら感心させられる。

 言葉が通じたら、もっともっと楽しい時間をすごせたのに、というカペさんの言葉通り、言葉の違うもどかしさはあったものの、通訳を頼らずにお互いを理解しようとした時間も又、私達にとっては貴重な体験でもあったような気がする。

 でも、せっかくのホームスティ。聞きたいことがたくさんあって今夜は、通訳さんがやってくる。きのうと、きょう、我が家で仕事をして一緒に食事をして、さぁ、今晩はどんな質問が飛びかうやら。・・・・その前に、夕食は何にしようかとお昼休みの今、これを書きながら考えている。


庄内協同ファ-ムだより 2001年7月 発行 No.76

[1]に家族。[2]に仕事。

小野寺 美佐子 鶴岡市

 澄み切った青空にサーッとひと刷毛はいたような白い雲が、真夏になったことを思わせます。いつの間にか短かった私の髪は肩まで伸び、顔や腕はまるで海に行ったかのように真っ黒に焼けてしまいました。素顔に自身のない私は化粧をしないで出掛けることなどなかったのに、笑顔こそ最高の化粧とばかりに、しみだらけの素顔で髪振り乱し動き回っていたのでした。

そんな自分の変化に気づきもしないほど、忙しい毎日でした。

私は仕事が好きで、自分の力量も顧みずあれこれと手を出してしまいます。そして、それなりに結果が出る面白さについのめり込んでしまいます。また駄目なら駄目でやっぱり闘志を燃やしてしまうのです。こんな私の性格に、ここ二ヶ月ばかり我が家の家庭生活はなかったも同然でした。

“私は私に問いました。”こんな生活でいいのかと。私が望んでいたものは穏やかで心豊かな暮らしのはずだったのに、漕げば漕ぐほど岸から遠ざかるような焦りを感じながら、思いは日々の忙しさに埋没してしまいました。

そんなある日私は体に不調を覚えました。この痛みには覚えがあります。5年前に研修先で緊急入院したときに似ています。「ヤバイ!」もうすぐ枝豆大戦争が始まるのに、私が倒れたら誰が雇用している人の管理をするの?誰が夫のサポートをするの?今は合宿でいない子供たちももうすぐ帰ってきます。あんまり期待してはいないだろうけど、母の手料理を食べたがっている家族の食事の支度は誰がするの?私は思い切って半日の休みをとることにしました。

暑い日でした。開け放した窓からは私の体をやさしく擦ってくれるかのような風が吹き流れてゆきました。

休息は大切ですね。4時間ほどの深い眠りから覚めた私はまだ痛みは感じるものの、やる気がふつふつと沸いてくるのでした。思うことはやっぱり仕事の事でした。いかん!いかん!見かけによらず華奢の私。認めたくはないけれど更年期もかかっています。今大事にしないとこれからの人生をつまらなくしちゃう。

[1]に休息。[2]に仕事。本当は[2]に家族のほうがいいのだろうけれど、やっぱり仕事がきてしまいます。ごめんなさい。

しばらくがんばって、[1]を家族にします。でもやっぱり2番目は仕事にさせて下さい。休息は[3]にして少しは身体を労しますから。


庄内協同ファ-ムだより 2001年5月 発行 No.75

いま新たなスタートラインに立っている

代表理事 佐藤清夫

4月中旬頃鶴岡公園の桜の開花も一気に進み、葉桜になってしまった夜、花見を兼ねた「ミ ニゼミ」が開かれた。
テーマは「環境問題の解決に果たす市民運動の役割」(水俣病の問題を 中心として)」というタイトルで、現在岩手大学大学院連合農学研究科の学生から発表しても らった。アグリフォーラム鶴岡の会員、山形大学農学部の先生と学生、団体職員あわせて2 0名の参加者で行われた。

食べ物を食べる人がいる限り農家は必要とされるんだという前提が今崩れようとしている。中国では、日本にいて想像も出来ないほどの規模の野菜が日本向けに作付けされているというし、韓国からも有機農産物の輸出の準備が着々と進んでいるという。遅かれ早かれ数年後には日本に輸入野菜が溢れる事になる。

日本農民が、かつて味わった事のない大きな変化が待ち受けている。 日本の経済はいまだに回復せずにいるし、まだ何年も回復できないだろうという人もいる。しかしそのほとんどの原因に絡んでいるのは日本人自身なのだ。 ユニクロが輸入農産物、輸入食品の販売に手を出すそうだ。農産物の開発輸入は商社の仕事だし、経済自体をここまで疲弊させたのも日本人自身がやったことだ。
自分で首を絞めてきたのだ。出口なんかあるわけがないし、とうとうここまで来てしまった。農家は農家でどうしたら生き残れるか必死で考えなければならなくなっている。
 そんな中、全国津々浦々で直売所が元気だ。そこに集まる農家の顔は活気に満ちている。そこには3つの理由があるようだ。新鮮で、安く、顔が見える関係。この3つ、これは究極のセールスポイントなのだ。まさに庄内協同ファームが目指した当初の産直の理念がそこにはあるようだ。そこにもう1つ安心安全のキーワードを付け加えていこうとするのが庄内協同ファームの今の方向であり、ますます元気の出る産直提携を目指していこうと思っている。

そこで生協や宅配システムなどの流通にただ頼るのではなく積極的に商品を魅力あるものにする努力をするべきなのだと思い、認証取得に向かい組合員の努力により有機認証を取る事もできたし、有機栽培に向かっての技術はいまだに脆弱な段階でしかないけれども、ほんの少しの進展があった。まさにここに道は示されているのだと思う。 もっとも困難な道に見えるが、時代とともに食べ物に求められる価値は変わる。農家としては楽しい話ではないがその求められる価値がどんなに変わろうともその素材の価値を生み出せるのは農家以外にないのだ。流通でも国でもない。 自分たちの新しい工場がいま目の前にある。どうしようが自分たちの思うがままだ。

全て自分たちの責任の中にある。しかし自分たちだけで何かができるわけではない。庄内協同ファームは、いかに地域の人たちを巻き込んでいけるかにかかってくると今更ながら考えている。地元の農協も町も一緒になって庄内協同ファームと消費者を含んで、ここ庄内の地域をおこがましくも何とか楽しいものにしたいと微力を持ってスタートラインに着いている。これからもより一層の産直提携をお願いします。

農業初心者、三年目にして思う事

余目町  富樫 紀子

今年4月から、ついにというべきか、とうとうというべきか、我が家に就農することになりました。4年間の大学生活を北海道で過ごし、農業の勉強と称して、長野の八ヶ岳にある農業の学校でも1年間過ごさせてもらいました。  この5年間で農業技術を習得出来たかというと、答えは限りなくNoに近く、サークル活動や趣味、友達づくりに励み、どちらかといえば、就農までのモラトリアムのような存在でした。

でも、この一見我が家の農業経営にはなんら関係なさそうな時間のなかで、私はたくさんの農業に夢を持った人たちに出会い、様々な考え方を知り、後を継がなくてはならないという、狭く重荷であった農業という存在が、無限の可能性が広がっている世界だったのだとあらためて感じることが出来ました。家を継がなければならず、自分に職業選択の自由がないことが、いやでいやでたまらなかったけれど、非農家で農業を目指している友達に、「のりちゃんは土地もハウスも機械もみんな揃っていて、うらやましいなあ」といわれ、農業をやりたい人間が農家の生まれということは、実はすごくラッキーなことでは!?と思えたことは、かなり目からウロコでした。

だから、遊んでばっかりいたことも一応役には立ってるんだと思うよ、父さん。(いいわけ)  完全なる田園生活を始めて、まだ数ヶ月ですが、全然悪くないなあと今は思っているところです。蛙やイモリを捕まえたり、ヨモギを摘んでだんごをつくったり、畦道に生える桑の実を集めたり、カラスに植えたばかりの苗が引っこ抜かれたといってはくやしがったり、晴れた日には田んぼを渡る風に吹かれ、流れていく雲を眺めたり、そんな農業のもつ時間の流れや、自然の変化が優しくて、面白くて、楽しいです。

今年、5月に祖父が亡くなりました。私に最もプレッシャーをかけ、そして、私が就農することを最も待ち望んでいたのが祖父でした。祖父が倒れた時には、もう手遅れなほどにガンがひろがり、日ごとに悪化していくのがわかりました。痛み止めのモルヒネの量がどんどん多くなり、だんだんと意識が朦朧としていくなかで、祖父は枕もとに私を呼び、はっきりとこう言いました。「紀子、夢を持で。夢を持たなくなったら農業はつぶれる」と。祖父は私に、最期の最後に一番大切なことを教えてくれました。農業で生活を支えていくということは、簡単なことではないです。農産物の価格は決して高いとは言えないし、市場や天候に常に左右され、輸入農産物にも押され気味です。どんな時代でも、農業はいつも厳しい状況にあったんだけれど、そんな中で、曽祖父は田んぼの開拓に、祖父は酪農に、そして、父たちはこの庄内協同ファームという加工、産直組織に夢を託してきたんだと思います。

さて、私はこれからどんな夢に向かっていこうかなあ。今、ぼんやりと考えているのは、観光農園です。農作物と作っている人と田舎の自然を一緒に味わえるような、自分や自分の周りの人たち、地域の人、都会の人、みんながゆったりと雲を眺め、風に吹かれ、幸せな気持ちになって帰っていけるような、そんな場所を創りたいです。ウ~ン頑張るぞー  とりあえず、明日から早起きすることからはじめます。ハイ。

農業初心者、三年目にして思う事

鶴岡市  冨樫俊悦

早いもので就農して三年目に突入してしまいました。本当に周りの人たちに助けられっぱなしの二年間でした。就農当初はまったく何もわからず頭だけで物事を考えていて脳みそがパンクしていましたが、最近では何となく流れがつかめてきて頭を使わない日々が続いています。 このままではボケるかもと思うのですが、逆に頭を使わないでいると様々なものが直接心に入ってくるような気もします。

やわらかな土の香り、畦に咲く色とりどりの花々、暖かい陽光・・・。 夕暮れ時は、しばしの間仕事の手を休めて空を仰ぐ幸せタイム。こんなことばかりしていると、田んぼではヒエがグングン育ち、畑では虫たちがバリバリとブロッコリーの葉っぱを食べていたりしていて、それでまた仕事に追われてしまうのですが、それもしょうがありません。 農業技術についても周りの人達に教えてもらう事が多いです。肥料のやり方ひとつにしても一塊で施したり全面に散布したり、施す時期や肥料の種類などなど様々なことが絡み合ってその作物に一番合うやり方ができていて、実験と失敗を繰り返し道筋を作ってきた先輩農家達の努力に『こりゃー凄いなー』と感服するばかりです。

自分も作物を観察してどの肥料をどれだけほしがっているのかわかるように、作物と話せる農家になりたいものです。 ところで、就農するとき一つ自分で決めたことがあったのですが、最近それを忘れがちになってしまいました。それは、『金を稼ぐためだけの農業はしない』ということだったのですが、お金大好きの私としては私欲物欲に走ってしまいやすいので、野菜が金に見えてきがちでした。当然お金は必要だし大切なものであることはわかっています。しかし、その先で何が出来るかということを常に考えていたいし、少しでも実行に移すようにしていこうと思っています。

この前、幼稚園の園児たちが我が家の田んぼで田植えをしました。泥の中に素足を突っ込んだ園児たちはキャッキャッと楽しそうにはしゃいでいて野生のサルのようでした。見ている自分も楽しくなって、教える側だったはずが教えることなど何も出来ずに逆に多くのことを教えられた気がしました。 何年先になるかわかりませんが、将来は農業の喜びを分かち合える仲間たちと農業共同体のようなものを作ってみたいと思っています。農業と日々の暮らしがそのままで芸術であるような、自給自足をしながらも外に向かって大きく開いているような、そんな共同体が夢です。

6年目に入って…

藤島町 職員 佐藤司

2001年6月、庄内協同ファ-ムが引っ越して間もなくした頃、いつも通り昼休みをしていたら従業員の人に「司君今年で6年目だのー」と言われ、そうかもう5年も経ったのかーと思ったのと同時に、今までの事、そしてこれからの事を考えていた。 高校を卒業と同時に庄内協同ファームに勤めて今年の4月で6年目に入った。高校の授業の中でパソコンの授業が多く、また農業高校だった為、農業の授業もすること があり、高校3年の就職活動では、この2つの勉強が生かせる仕事がないかと探していました。
そんな中ちょうど庄内協同ファームを知り、受験したところ採用され現在にいたっています。 仕事の内容としては、県外との取引を多くしている為、荷造りをして宅急便で送る発送作業や規格書などを作成する営業的な仕事を主にしていますが、今の時期人手が少ない為、時には製造に入る事もあります。

庄内協同ファームの取引先は遠い為、なかなか消費者の方々とあまり交流する機会が少ないのですが、数年前、東京の生協さんに1週間、名古屋の生協さんに1週間と研修に行く機会があり、その研修の中で配送員の方と一緒に、配送の車に乗って実際に消費者の方々に商品を届けるという経験をする事ができました。その時1人の消費者の方と話ができ、話をしたところ「商品が届くのをすごく楽しみにしているのよー」と笑顔で答えてくれました。

思い出すと庄内協同ファームに入った時、組合員の人達からよく聞かされたのが「顔の見える関係をずっと作ってきたし、これからも作っていきたいなやのー」と言われ最初は何を言っているのかわからなかったけれど、その時初めて、組合員の人達に聞かされた話の内容が理解出来たのと同時に、大切なことだと思いました。今でもその消費者の方との会話をはっきり想い出す事が出来ます。

庄内協同ファームは、餅の加工が中心なので年末にはたくさんの従業員の人達が働きにきます。中には12月だけしかこない人もいます。そうした人たちとは今までは、その時だけの付き合いや、話をしたことのない従業員の人がほとんどでした。しかし、これからはそういう人達といろいろな話をして、いい関係を作りたいです。また従業員だけといい関係を作るのではなく、原料を作っている生産者の人とも、もっともっと話をして関係を今より深めていきたいです。

そして庄内協同ファームの中でもいい関係を作り、その仲間たちと共に協力して消費者の方々に安全でおいしい農産物、加工品を届けたいと思います。 6年目に入り責任ある仕事も増え、新しい仕事に気をとられ日々の仕事が雑になりそうな時もありますが、そんな時はあの消費者の方の「商品が届くのをすごく楽しみにしているのよー」と言ってくれたあの笑顔を想い出し、これからも荷造りや、規格書の作成、もちの製造を続けていきたいです。

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夢を持ちたい

三川町 職員 今野昭史

小さい頃、私は農業が嫌いだった。中学くらいまで農業の手伝いをしていたが、休みの日など友達が遊んでいるときに限って手伝わされたのが嫌で、大人になったら絶対農業はやらないと決め込んでいた。当然のことながら、進路は農業ではないものを選んだ。私が選んだのは水産業。何故それを選んだのかは割愛させてもらうが、私は故郷を離れ、鹿児島で真珠養殖をやっていた。しかし、そこの会社が倒産して、私は故郷へ帰ることとなった。

故郷に帰ってきて10ヶ月ほどぶらぶらしていた。仕事もそれほど真剣には探してはいなかった。ある日職安に行ったら、庄内協同ファームの採用案内があった。自分の家の近くにそんなところがあるとは思いもしなかった。なんとなく気にはなったが、もっと条件のいい仕事があるだろうと思って決断までは至らなかった。そうこうしているうちに、実家での肩身も狭くなって、働かない事にはどうにもならなくなった。職安に行って相談してみると庄内協同ファームを紹介された。私はそこを受けてみようと思い、そして採用された。 なぜ嫌いな農業にかかわる仕事をしようとしたか。それは農業に関わるのが運命なのではないかと思うようになったからだ。

私は夢を持っていない。農業が嫌いで選んだ水産業ももうする気はなかった。夢を持っていないと仕事を探そうとしても何を探せばいいのかわからなくなる。となると、自分が今まで生きてきた中で関わってきたものから探すしかなくなる。私の家は農家なので、農業に関わる仕事をすれば、何か道が開け、新たな夢も見つかるのではないかと思ったのだ。農業の知識は、農家ではない人よりは少し分かる程度でお世辞にもあるとはいえないが、今から勉強すればなんとかなるだろうと腹をくくったのだ。

私の庄内協同ファームでの仕事は、ファーム内での製造を円滑に進められるように段取りをする事だ。しかし、実際は私の力不足で円滑には進められていない。だからいつもドタバタしてしまう。最近は仕事に追われて自分で何をやっているのかわからないときもあるのだが、何とか頑張っている。 組合員の中の息子に私の高校時代の後輩がいるのだが、彼は農業をやっていて農業が面白いという。自分と同じ世代で農業が面白いという人に今まで会ったことがなかったからかもしれないが、私は彼を羨ましく思った。この庄内協同ファームには他にも農業に夢を持っている人がたくさんいる。私はここでの仕事を通して自分にも農業の夢が芽生えればいいと思っている。

スケッチ ~120羽の必殺仕事人~

鶴岡市  佐藤喜美

6月に入って一段と緑が濃くなった。田植えが終わって1ヶ月あまり、成長した稲の苗は草丈が30センチをこしただろうか、株間に見えていた水面も葉に覆われ一面の青田に変わっている。さて、今年5年前一度挑戦して失敗に終わった合鴨農法に取り組んでいる。ひとつはこの農法が有機米作りでは一番定着していることと、完璧に害虫を食べてくれるというメリットがあることだ。

年々増えてきているイネミヅゾウムシに頭を抱えていた夫は、「除草は私も手伝うから」という言葉に決心したようだった。 5月26日九州で生まれてすぐ、舟形まで空輸され第一農場で育てられたかわいい14日雛が我が家に着いた。雛が小さかったので早速ビニールハウスの中に部屋を作り餌付けと外気温に馴らすことにした。5日ほどそこで過ごした合鴨を網とてぐすを張り巡らした圃場に連れて行き放した。
ところが合鴨は水鳥なのに溺れてしまい、体から油が出ず毛づくろい出来ず弱って瀕死の状態の物がでて大騒ぎ。その鴨たちを圃場から引き揚げタオルで体を拭き、毛布に包んで温めること3時間。 すっかり元気になり、用意した桶の中で早速水泳ぎの練習を始める鴨もいて、その様子を見ていた夫も私もまるで親にでもなったつもりでついつい時間を忘れて見入ってしまうほど。 2,3日するとすっかり泳ぎもマスターした合鴨を再び圃場に連れて行き一羽一羽に「しっかり仕事をするんだよ」と言い聞かせて放すと、すぐ前の群れの中に入って行った。でも圃場では空からの外敵カラス、トンビに狙われ20羽ぐらいは餌食になってしまった。
なかなか外敵を現行犯逮捕も出来ず、見せしめのためにクローンカラスを吊り下げたり、てぐすを細かく張ったりしたものの、かわいそうなことをしたと思う。

私はこの農法で期待したことが2つある。害虫を食べてくれることと草取りをしてくれること。1つ目は完璧だったが2つ目の除草は私の考えが甘かったことがすぐ結果となって出てしまった。外敵に狙らわれ怖い目をした合鴨は群れを成してしまい、なかなか分散しないためヒエがみるみる大きくなり、彼らの手に負えなくなってしまった。最初に放す時「あなたがちゃんと言い聞かせて放さないから仕事怠慢でダメだ」と夫に文句は言ったものの、このまま見過ごすわけにも行かず、意を決して田んぼの中でマージャンをすることにした。
(庄内では田の中を這うという)草取りのため片道(距離として60メートル)1時間半の腰を曲げての除草作業は腰から火が出るくらい(庄内では、ものすごく痛いことを言う)辛い仕事である。

彼らも草のあるところは泳ぎ悪いとみえて、私が草取りをした後をガアガア(これは私に対してお疲れさんと言っているように)鳴きながらついてくる様子は可愛いけれど「しっかり仕事してよ」ついつい独り言をいってしまう。とにかく 草取りももう少し。これを教訓に来年はしっかり合鴨を調教し、除草の仕事は彼らをメインに私達がお手伝いというようになればいいなと思っている。7月に入るとそろそろ梅雨も明け、本格的な夏の到来である。春から好天に恵まれ農作物も順調に育ちまずまずの収量が望めそうだ。 より安全で、よりおいしい物を追求していく庄内協同ファームの新たな出発の年でもある。

・・・・・・・竣工記念メッセ-ジ 

庄内協同ファームが藤島町にやってきた

組合員 志籐知子

これは私にとって、気楽な脇役から一転して主役に抜擢されたような気分である。 これからは何かにつけ、藤島町か?ファームとの接点になる、そう思うと藤島住民の私としては何か身の引きしまる思いがしてしまう。今年は我が家の三人の息子たちの新たな出発の年でもあった。私たちもそれに負けじと新しいスタートラインに立って子供たちへのエールよりも、さらに大きなエールを自分自身に送りつつ、この新拠点から大きく羽ばたきたい。
藤島町のみなさん、どうぞよろしく!!

楽しくおもしろくワイワイと

組合員 冨樫俊一

先日息子の友人が援農にやって来た。東京生まれの百姓志願だという。最近時々そういう若者に出くわす。ともすれば元気を失いがちな現場で、そんな新鮮なハートでひたすらな思いを語られると、もう君の瞳に完敗。

がむしゃらにこれまで私も頑張ってきたけれど、忘れていた百姓が元気な頃に戻ったようで何ともいえない良い気分になった。土を耕す現場では証書や肩書きよりもアイデアと前向きな姿勢が一番だ。我々が食べ物を作る。食べ物は人を作り、人が文化を創ってきた。いわば百姓は、ほとんど表にでることはないが、実は社会の末端までを動かしている血液みたいなもので生きる為には、絶対に必要なものだ。

百姓に多様な価値観を持った若者が多くなってきたことは実に嬉しいことだ。外圧が強く、揺れている今だからこそ内圧を高めるべく個々のエネルギーを高めこの若者達を失望させないよう温かく見守ってやりたいものだ。
楽しくおもしろくワイワイとやりましょう。 日本の未来も捨てたもんじゃないかも?

いくら無農薬の米作り、とはいえ

組合員 五十嵐ひろ子

我が家の労力を考えると合鴨農法はムリ。そんな我が家でも出来そうな紙マルチ農法に今年は挑戦した。三反歩の田植えに4時間ほどかかったが、除草の効果は期待できそうだ。あれから一月ほど経ち、緑が一層濃くなった田んぼを眺めながら、今日私は、地元の小学校の一日先生。 担当は美術(図工)。絵を教えるというよりは、絵を描く楽しさを教えられたらと思っている。目を輝かせ、出来上った作品に歓声を上げる子供達に愛しさを感じながら軽トラでの帰り道、緑の田んぼに庄内協同ファームの新しいスタートを思う。

私達の宝物

組合員 菅原 すみ

2月の吹雪く季節になると、6~7人のメンバ-は公民館に集まり、就農と同時に減反政策でリストラに遭った自分達のこれから生きていく道を探る合宿を重ねていた。私はいつも賄婦。悶々としているメンバ-のひとときの気分転換になっていただろうか。
あれから26年。身の丈に余る新拠点の竣工式を迎えようとしている。お祝いに駆けつけて下さる方々に食べて頂くごちそうを考え、賄の準備をしている傍らには一緒に歩んできた仲間達がいる。 そして、振り向けば親の背中をみつめている庄内協同ファ-ムの子供達。ファ-ムの若い職員達と共にキラリと輝く真珠のように育った。
私達の自慢する宝物、後継者達。親と同じ道を歩んでいたり、それぞれが選んだ道に進んでいたりしながらも何らかの形でファ-ムに関わっている。
さあ、みんなでもうひと頑張りしよう。いぶし銀のシルバ-を目指して。

何にも勝る『裕子ブランド』

組合員 富樫 裕子

今、トップブランド『エルメス』の銀座店がオープンしたそうで、1個何十万もしそうなバッグや靴を買う人で長い行列ができているとか。 我が家のトップブランドの野菜たちも、家の裏の畑で、春先から、ほうれん草、春菊、小松菜、チンゲン菜、いちご、などが終わりに近づき、今は白菜、キャベツ、さやいんげん、大根、きゅうり、が採れ始め、もうすぐナスやトマト、みょうがが食べ頃になります。今年から新顔のにがうりも盛夏の頃には食卓に上り始めるでしょう。  自分で種を播き、毎日成長を楽しみながら、手をかけ、やがて収穫をし、食卓にのせる。それがとても嬉しくて、何にも勝る『裕子ブランド』です。


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