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庄内協同ファ-ムだより 発行 No.103 2004年5月

田植えの準備と作業風景 阿部 事務局

阿部 事務局

 今回のファームだよりは写真を使用して見ました。取材先は協同ファームの生産者でかつ、製造部門の責任者である野口吉男さんからご協力いただきした。(取材日5月12日、14日)
内容は、田植えの準備から田植えまでの作業工程を6段階に簡易的にまとめたものです。
見覚えのある風景もあるかもしれませんが、皆様が毎日、口にするお米の春の作業を農家のみなさんがどのようにしているか、写真でみて、いろいろ感じて頂ければ、幸いに思います。

NO1  5月12日

このハウスの中で苗を育苗させます。期間は約3週間程度で温度は25℃位に保ちます。
ハウス内の温度調整と育苗状況の観察も必要なので毎日チェックしに足を運びます。ハウスの中には、3町6反歩分必要な為、約1000個の苗箱があります。

NO2  5月12日

運び出した苗箱をトラックに積み、田植えをする水田に運びます。持っている田んぼがすぐ隣りであると楽なのですが、以外とあちこちに分散しているケースが多いとのことです。今年の根は長く元気でしっかりしているそうで、このまま天候も見方してくれますと秋の収穫に期待が持てます。

NO3  5月12日

田植えをする前の水田です。これから水抜きをします。この水田の品種は『ひとめぼれ』となります。水田だけなのですこし見え難いかもしれませんが、御了承ください。

NO4  5月12日

この様に先ほどトラックに積んだ苗箱を水田の端に置きます、水田の脇の畦道に置く場合もあるそうです。この水田の面積は30アールになりますので、苗箱の数は、約90箱程度必要となります。

NO5  5月14日

較的に見た事のある風景かもしれませんね。苗を水田に置いた当日に田植えをする場合もありますが、大概は翌日から田植え作業する場合が多い。作付け面積、天候具合により、それぞれの農家の判断になります。

NO6  5月14日

野口さんは、6条植えの田植え機で作業した場合は、一日150アール程度以上の田植えが可能とのことですが、実際は田んぼがあちこちにあり、天候のこともあるので4日5日程度必要とのことです。当日は私が取材したため思うように進まなかったようです。

 以上が田植えまでの大体の作業工程となります。
今回は、協同ファームの事務局の阿部が担当させていただきました。

 


庄内協同ファ-ムだより 発行 No.102 2004年4月

今回は、余目町の工藤広幸さんを紹介します。(この文書は、組合員の相互理解と云うことで不定期に発行している内部広報紙に掲載するため、冨樫俊一と高橋紀子が、工藤広幸さん宅を訪問し、取材形式でその人が本格的に農業を営むきっかけとなった経緯や今後についての夢、豊富を語っていただいた記事内容に加筆変更をしたものです)

生産者の紹介

工藤さんは、田んぼ11ha、大豆5ha,それから花、冬期間はシイタケを栽培している農家です。専業農家になったのは今からほんの6年前からで、それ以前は車の整備士として20年以上も企業に勤めていた会社員だったとの事です。
高校は農家の長男だから、そのまま地元の庄内農業高校に入り、同じく庄内協同ファームの生産者として活躍している佐藤清夫さん、五十嵐良一さんとは同級生であるそうです。
俺は、彼らみたいに農業が好きではなく、やりたくは無かったが卒業して親父に「一年だげオレどごあそばせでくれ」と頼んで、地元の庄内太陽自動車学校に一年間通い整備士の免許を取りました。
それからは、農家を兼業しながら酒田で3年間整備士の仕事をし、更に地元余目町の自動車学校に整備士として勤め、その後に農協の整備士として20年間勤めました。JA全農の整備士コンテストでは最優秀賞に輝き、全国トップの整備士として評価された経歴をもつ、いわゆる整備のプロの方です。最近も修理に出したが直らなかった娘さんの愛車(ビートル)を本人が直したというエピソードがあります。

45歳の決断

工藤さんが専業農家になったきっかけは、兼業農家をしながら集落の実行組合長をしていた頃に、仕事でいろいろなお家に自動車を取りに行くと、花を作っている農家が一番生き生きした顔をしていて自分でもどうかと考えていた時に、集落の生産者から花をやってみないかと誘われたことによります。

 その時にどうするか考えたことは、もう少し時間が経てば飛び出す勇気が無くなってしまう。やるとすれば、今しかないと思ったそうです。45歳の決断でした。
 工藤さんより一足先に仕事を辞めていた奥さんと夫婦二人で花を始める為に、480坪のハウスを建てました。ちょうどその年、余目に種苗センターが出来たのもタイミングが良かったと今は思っているそうです。

そして後継者が

 今年の春から、東京で働いていた息子さんが帰ってきて就農する事になりました。
県の農業研修制度を利用して、隣接三川町の農家にシイタケの研修を6ヶ月~1年間程した後にきのこ部門を任せようと計画しているそうです。その為に、シイタケ用のハウスも建てる予定です。
 息子さんは東京農大卒ですが、独学でコンピューターの勉強をし、パソコンのシステムを作る会社に2年間就職し、『オヤジ、オレ農家しねぞ』って言われて、『ああ、んだが』と云っていたが・・・・。
 コンピューター業界は毎日が残業が続き終電で帰る日々で、仕事を続けられないと感じたようだとの話しで、一度は違う仕事に打ち込み、そして農業の世界に返ってきました。
 同じ道程を辿ってきた父子だからこそ(農業をしないと言った時も)(帰ってくる時も)その気持ちが、理解できたのかもしれません。
 本人の夢は農業法人にする事だそうです、息子さんも就農し、花とシイタケのハウスも増え、その夢に一歩一歩確実に近づいている。そんな印象を受けました。


庄内協同ファ-ムだより 発行 No.101 2004年2月

もうすぐ、春

小野寺仁志 鶴岡市

もう春の声を聞く時節になりました。シベリアから酒田の最上川河口に渡来してきた白鳥は一冬あちこちの田んぼで落穂をついばむ風景もあと少しで見られなくなります。そういえば、もち米を栽培したわが家の田んぼは未熟粒が多かったせいか、例年よりずいぶん多くの白鳥が来て、落穂をついばんでいました。

この光景を遠くで見ている分には白くて美しい鳥というイメージですが、近くに寄ってよく観察すると「グェッグェー」という鳴き声はお世辞にもきれいとは言えなく、形も大きく、ドロの中の餌を食べているせいか口元も汚れているし、水面を泳いでいる姿はとても優雅ですけど、地面を歩く姿はちょっぴり滑稽に見えます。でも群れを組んで行動する白鳥は役割分担があるらしく、餌を食べている時も数羽は外敵を監視して仲間が安全に餌にありつけるように、しているのです。仲間同士生きる術をちゃんと身につけているのには感心させられます。
先週、真冬にはけっして鳴かないスズメのさえずりを聞きました。まだまだ、外は寒いですが、春はそこまで来ています。(川原のふきのとうも芽を出し始めました)

今は確定申告の時期、昨年の経営を反省しながら、また今年度の計画を考え、申告書を作成しています。昨年水稲の有機栽培では、害虫(イネミズゾウムシ)と広葉雑草の被害がひどく、大減収でした。6年間頑張ってきました有機栽培米の生産を経営的考えで今年は断念します。(害虫、雑草の密度が少なくなったら、有機栽培を再開する予定でいます)ちょっぴり、寂しい気持ちですが畑作(枝豆、大豆)での有機栽培をより安定的に行なえる技術を模索したいと思っています。
食べて下さる皆さんの思いは理解できますが有機栽培の大変さ、つらさを一番良く知っているのは農民です。——-私はマイペースで行きます!! 2004年2月20日

追) 昨日(2/22)、庄内地方の最高気温が20℃を超え(これは当地方の5月下旬の気温に当たります)春本番という感じでした。シベリアから越冬しに来た白鳥の北帰行が一気に進みそうです。

スケッチ

菅原すみ 三川町  2月25日

 啓蟄ももうすぐ、この頃ようやく春の陽光を感じるようになりました。冬の間、古くなって修繕をしなければならない蔵の中を少しずつ片付けていました。大正時代に建てられた土蔵ですが、 長年、米を積み重ねてきた重みで板の間が軋み内壁がはがれ落ち、痛みが目立つようになってきているのです。
戦後頃までは米を保管していた蔵ですが、狭い入り口を一俵ずつ担いで出入りしなければならず、今は力を使わなくても良い、フォ―クリフトという便利な機械で米を積み重ね出し入れが出来るので、稲倉という建物に保管をしています。

一階は、馬鈴薯、南瓜、人参などの野菜の貯蔵庫のほかに昔の食器や漆器など「食」の収納になっており、二階は昔の布団や着物などの「衣」の収納場所になっています。一階の戸棚には、お昼に田圃に持って行ったごはんや漬け物などを入れた大きな木の器の「きりだめ」や「おかもち」など、木や竹の形を利用した器があります。
二階に昇り奥にある行李や箪笥を開けてみると、農作業や普段用に着ていた絣や藍染めの作業着がしまわれています。蚕を飼い、糸を紡ぎ、藍や草木で染めた布を縫い、ほころびたところは当て布や刺し子をして繕い、布を大切にしていた思いが一針一針に感じるものばかりです。
一日の農作業を終え食事を作り片付けを終え、子供を寝かしつけたあとの眠い目をこすりながらの手仕事だったのでしょうか。地味で粗末なものにしか見えない色や柄のものですが、暖かな手のぬくもりが伝わる大切な我が家の宝物です。

羽織ってみると、肌にしっとりとなじみ木綿は夏涼しく働き易かったことでしょう。縫い目が肌にさわって痛くないように別布でくるんであり、裾は動き易いようにスリットが入っていて、ここの所も別布で丁寧にくるんであり破けない工夫なのでしょう、農に向かい合う昔の人達の意気込みが野良着を通して伝わってきます。
古い道具類に昔の人の暮らしぶりを想像しながら、この蔵にいつまでも保存しておける私達の時代の手仕事を残せたらいいなと思うのです。
外から夕刻を知らせる音楽が聞こえてきました。半日が経つのはあっという間、ごはんの仕度に家に戻ることにして、土蔵の出入り口の扉をあけると、防犯用につけられた鈴の音が「チリンチリン」と鳴ります。昔の時代と今の時代を行き来する心を切り替える合図のように聞こえてきます。
外は雪もとけ、そろそろ種を蒔く畑の準備をしなければなりません。しばらくの間、蔵の片付けは中断です。


庄内協同ファ-ムだより 発行 No.100 2003年12月

今年の稲

冨樫俊悦 鶴岡市

私が農業を始めて今年で五年経った。イネミズゾウムシで田に稲がなくなった年もあった。
有機栽培の田には毎年立派なヒエがたっている。今年は冷夏という事もあって収量は例年の一俵落ち。
もともと収量が低いので一俵落ちると凄く痛い。ここまできて、やっと自分を「甘い」と反省している。

有機栽培だから草が生えていても当り前、多収穫を狙えば病気が出やすい減農薬無化学肥料栽培だから収量は低いんだ。今までは一生懸命やる前に決め付けていた。
 ある程度のことをやって「出来る事はやった」と自分をごまかした。しかし、今年、冷害でも精一杯稔り垂れた稲穂を見て「精一杯」の意味を教えられた気がする。

今思うと…

高橋直之 余目町

僕が農家の家に「マスオさん」の立場で来てから3回目の冬を迎えた。農業の「の」の字も分からずに秋の終わりに鉄工所を辞めて富樫の家に来て、その冬からファームにもお世話になり、もちつきの仕事も何だかんだで3年目。
その「何だかんだ」の間、春のとてつもなく忙しい田植え、暑い中ビニールハウスを2棟建てた去年の夏、雨に追われながらの稲刈り、そしてなかなか先が見えないもみすり等々たくさんの仕事や経験をした。

「今思うと激動の2年だったよの」と嫁さんと話をしながらこれを書いていて、「でもまだ2年しかたってないんだよの」と思った。これからあと何回の田植えが待っているのか。何万の米袋を作るのか分からないけど、大変な仕事だとしても、そこに「楽しい」好きな部分を見つけられれば何とかやって行けそうな自信が少しずつ出来てきたかな。
でも、大好きで毎日でも食べたいジャガイモ(コロッケが好き)頑張って作ったけど、お金にはそんなにならないんだよの…..。


庄内協同ファ-ムだより 発行 No.99 2003年11月

百姓の心意気

志籐 正一 藤島町

11月も半ばに入り、鳥海山も月山も中腹まで雪をいただき、刈り取りを終え静かになったたんぼには白鳥が群をなして落ち穂をついばんでいます。
このところ11月にしては珍しく穏やかな天気が続き、転作田の大豆の収穫もいよいよ追い込みに入っています。せめてこの秋の天気が半分でも7、8月にあったらと恨めしく思いつつ、93年以来10年ぶりの冷害年の今年、庄内協同ファームの米の予約をまとめた結果を見ると、うるち米で80%もち米で85%くらいの収穫量になりそうです。

不幸中の幸いといえるかどうか、今年の春先、庄内協同ファームではもち米が底をつき加工場が開店休業の状態になったことを踏まえ、栽培面積を多くしました。このおかげで何とか減収分を確保し去年並のもちの供給にはこぎ着けられそうです。
不稔型の冷害で、10アールあたり3~4俵しか穫れず、他の産地からもち米を買わざるを得なかった1993年の冷害を思い起こせば、何とか自前のもち米でおもちを作れることに安堵しています。

今年の米不足をマスコミはそれほど深刻には報道しない様ですが、実際の減収はかなりのもので、東北北海道の中では減収率が低いと言われるここ庄内でも農協は仮渡し金を昨年比125%まで上げ集荷に懸命です。
特に不足になっているのがもち米で仮渡し金は昨年比140%、農家の庭先には、3万円でも4万円でもいいから、もち米を売ってほしいという業者が出入りしていてなかなか集荷できないようです。豊作だと言っては減反を増やし、不作を迎えれば極端に米価が上がってまたまた消費が減る。

こんな繰り返しに私たちは少し距離を置きたいと思います。産直の意味をもう一度問い直し、業界の値動きに惑わされることなく、何とか値上げをせずこれまで通りの価格と品質でお米やもちを供給したいと思っています。
15~20%の減収は所得に換算すると50%減位になってしまいます。豊作でも不作でも生産費は同じなので不作分はそのまま所得に食い込むからです。またこれまで低温や冷害の時ほど、有機のたんぼは強みを発揮すると言われてきましたが実際はなかなかその通りにはいかないようで、カモなど害虫対策をしたところは有機栽培でも比較的収量が安定していますが、大部分のたんぼは田植え後高温に経過した今年、生育前半にイネミズゾウムシなどの害虫被害やおもわぬ地震の被害などを被ったことが最後まで響いたようです。こんな冷害の年でも年々種子の数を増している雑草は遠慮無しに生えてきます。

そんなこんなで、有機の田んぼも減農薬も総じて収穫が進むにつれて収量が低いことがはっきりしてきています。
にもかかわらず、価格の据置は私たちの大きな決意であり、感謝の気持ちであり、百姓としての心意気です。これからも相互の信頼の基におつき合いを重ねていきたいという私たちの願いでもあります。

農民が農民らしく生きられることを目標に庄内協同ファームは組合員の経営と生き方を支える組織として法人化し、15年を経過しました。産直を通じて知り合えた皆さんに支えられ同じ生活者として学習する中で、環境汚染、環境ホルモンや遺伝子組み替えの問題など多くの問題に関心を持ち、農業のやり方そのものを変える必要があることを知りました。
私たちにとっては大きな決断でしたが農薬や化学肥料に出来るだけ頼らない農業を目標に組合員がそれぞれ工夫をして挑戦してきました。

雑草が生え、害虫の被害でみすぼらしくなった田んぼを前にして、このまま続けていいのだろうかと迷うこともたびたびですが、やはり私たちの目指すところは“命をつなぐ本物の食べ物を作る”であるように思います。
迷ったときはこのことに立ち返りつつ、農業をやり続けることが日本の農業を守ること、地域や環境をを守ること、そう信じてこれからも頑張っていきたいと思います。
 加工場はいよいよ生産に加速がかかり、猫の手も借りたいほどの忙しい季節を迎えます。広かった駐車場が組合員や餅つきのためにお願いした臨時の作業員の人たちの車で埋め尽くされ、白衣に身を包んだ50人近くの人達がにぎやかに作業をすることになります。
出来上がった庄内協同ファームのおもちが皆様のおいしい笑顔を誘えますように。


庄内協同ファ-ムだより 発行 No.98 2003年9月

25回目の秋

志籐 知子 藤島町

「どげだや、出来は?」「ねっけのー。」「ねっけぜー。がっかりするほど!!」  こんな会話が飛び交って、今は稲刈りの真っ最中。
10年ぶりの不作で、報道では、ここ庄内の作況指数は94と言われておりますが、実際の収量は、84くらいなのではないかというのが実感です。収穫に向けて様々のアクシデントに耐えて対応してようやくたどり着いた結果がこの作況。誰に怒りを向けられるでもなく、現実を淡々と受け入れて、コンバインを稼働させています。
10月から、もちの加工を控えている私たちにとってその原料となる餅米の不作は大きな脅威でしたが、どうやら不稔型の不作ではなさそうだとわかった時には、ホッと胸をなでおろしました。ちなみに今年のような不作は低温日照不足による遅延型の不作と呼ばれています。東北の中では太平洋側の地域で不稔が多発し、不作はより深刻となっていることを思えば、被害がこの程度でおさまったことに感謝しなければならないのかもしれません。
 いつもなら、もう大半を終えている時期ですが、稔りを待っての今年の稲刈りは、まだ始まったばかり・・・・
それでも、加工場では、餅つきの準備が着々と進んでいます。刈り取りの遅れが加工に影響することのないよう、調整に励み、穫れたての餅米がふっくらおいしい餅に変わる瞬間を私たちも楽しみに待っている所です。
 我が家では今は柿畑の草刈りと支柱立て、それに冬期間の豚の餌となるデントコーンでのサイロ作りがあります。稲刈りの合間を見てどの仕事をするかを決めます。仕事を選ぶ決め手は天候です。雨降りなら豚舎の中、小雨程度なら柿畑の仕事、晴れならデントコーンの処理という風に決まります。なにも仕事の無い日というのがあれば大歓迎なのですが、養豚農家という性質上、そういう日は1年に1度も巡ってこないのが現状です。
 忙しい日の連続で1年が終わってしまわないようにと9月から半日ずつ雇用を入れることにしました。特に条件なしで募集したので、結局1番最初に面接に来てくれたWさんと言う農業経験の無い実直そうな人に決まりました。
どの仕事も初めてで、彼を見ていると、自分の就農当初の辛かった思いを久しぶりで思い出すこととなりました。何をしても体力が追いつかず、口惜しくて頑張っても仕事はさほどはかどらず、それでいて疲れは人の倍・・・・ ああそうだったと、忘れていた自分の歴史を彼が繰り返して見せているようにも思えました。
 たいていの農作業をそう辛いとも思わずにこなせるようになった今の私は、自分自身が長い年月をかけて、自分の中に蓄積してきたものなのだと改めて認識させられました。そう考えると、農業という仕事の中で何時間も頑張って働く能力と体力のある私達は、もっと自分に自信を持ってもいいのではないか、誇りを持ってもいいのではないかと思えてきました。リズミカルに体を動かし、無駄なく無理なく持続する草刈りなどは、まさに技能そのものです。
就農して25年、25回目の秋を迎えました。知らず知らずのうちに自分の体の中に蓄積されて来た技があったようにこれから先の人生でも又、積み上げられていく何かがあればいいなと思っています。若さが失われていく分、肩の力を抜いて余裕を持って仕事とも人とも接していくこと出来ればいいと思います。
 デントコ-ン畑での夕刻、見上げた空に無数の赤とんぼが舞っていました。今年始めて目にする光景でした。今年のような不順な天候の中ですら、自然は小さな命を間違いなく育んでいます。その確かさに感動しつつ、自分自身の中にも、確かなものが息づいていることを信じて、忙しい季節を乗り切りたいと思います。


庄内協同ファ-ムだより 発行 No.97 2003年8月 

異常気象の夏

佐藤喜美 鶴岡市

 セミの鳴き声もあまり聞こえない、クーラーをつけるほどの暑さでもない、今年は8月2日に梅雨明け宣言をしたものの1週間後には撤回するというやはり相当異常な夏なのだろう。近頃、毎朝雨の降る音で目が覚める。「ああ、また雨か」仕事への意欲が半減してしまうが、その気持ちを奮い立たせ雨具を着て枝豆畑へ。

 我が家では、今シーズンからだだちゃ豆の作付面積の増大にともない、労力の軽減化を図るため、枝豆床土入・播種機・定植機を導入した。発芽率が70%の低さゆえに、直播ができないだだちゃ豆は移植栽培方式が用いられている。

稲作の管理と重なる忙しいこの時期、手間のかかるセル苗作りで、どの仕事を最優先するか夫婦ゲンカの種でもあった。しかし、機械導入により2人で作業しても1日かかる仕事が1人で半日でこなせるようになった。

4月の中旬から随時播種し、端境期をなくすために10種類もの品種を作付けしているが、8月に入ってからの日照不足、低温続きで1品種はおくれている。自然の前には無力を思い知らされ、空を見上げては恨めしく思っている。

 先日、山形新聞(地方版)の「私の主張」という欄に中学校以来の大親友の記事が載っていた。少し抜粋して載せたいと思う。彼女は熊本に嫁いで27年、時の流れを忘れさせてくれるものが、庄内の「だだちゃ豆」である。この時期になると彼女の元に彼女の父親手作りの「だだちゃ豆」が山ほど送られてくる。

送られてきた枝豆の量に驚きながら、熊本の家族全員でビールを片手に枝豆を頬張り、「おいしいね」「枝豆の王様だね」「日本一だね」「他では食べられないね」などと早口で言いながら食べている彼女に、ご主人も、子供たちも「またか」と笑いながら「うん、おいしいね」といって食べてくれる、との事だ。

 遠い地で、だだちゃ豆で『故郷を味わう』彼女の顔が思い出されます。最後に彼女はこう結んでいた。「私もいつの日かかめばかむほど深い味わいのある『だだちゃ豆』のような人生だね。」といわれるような人になりたいと。私も同感だよ。


庄内協同ファ-ムだより 発行 No.96 2003年7月

稲が・・・ない

鶴岡市 五十嵐 良一 7月14日

 就農したての若い頃、米作りの事で同じ様な夢を幾度となく見るものでした。

村の東の通学路沿いの圃場が泥水の冠水で「黄化萎縮」という病気で、稲が全面出穂せず、落ち込む夢でした。はっとして目がさめ、夢だった事にほっと安心した記憶です。

 農を業として30数年、それに近い経験はありました。育苗の全面失敗、播き直し、全圃場の倒伏、イモチ発生の減収、冷害により傾かない穂。それでも植えた稲が全面なくなるという様な事はありませんでした。まかぬ種は生えないけれども、植えた稲は、減収する場合はあっても秋には、米として収穫できました。

 しかし、5月26日6時半頃の地震の翌朝、紙マルチ田植機で移植した圃場に水回りに行った時、愕然としました。5月11日、12日植えたはずの稲が・・・。120aの私の圃場が・・・。やっと活着し、少し黄ばんだ苗から緑色を増しやっと稲と呼べる私の稲が・・・。緑が・・・。所々にしか見えなくなっていました。地震の被害で、そうなったと理解できたのは、翌日になってからでした。

 私達、庄内協同ファームでは、有機認証による有機栽培米の取り組みをし3年目を迎えました。昨年仲間と共同で紙マルチ田植機を購入しました。1.9m程度の黒い紙を敷きながら田植えをし、田面をすべて紙で覆い除草効果を狙った栽培方法です。

 有機栽培においての育苗方法は、種子の病害発生は木酢や温湯で、又、有機肥料の障害も、水を貯めるプール育苗で、何とか、失敗を重ねながらも、確かめながらやってきました。病害虫については、肥培技術や、天然由来の資材の利用で、増収は望めないもののある程度まで対応してきました。

 しかし、除草については、面積を増し、仲間を増やす決定的な方法はかなり難しい事でした。

 そこで一年の試験的な紙マルチ田植機による、有機栽培に取り組み仲間と話し合いを重ねての導入でした。

 昨年7ha余り、今年新たにコシヒカリの作付けも行い10ha余りに増えました。

 地域でのつながりも新たに取り組み、有機栽培米を広げようとした矢先の出来事でした。

 自分の水管理の失敗と前夜の風で、紙マルチが浮き、稲が紙マルチの下敷きになったものと思い、前日の少し多目の潅水を悔み、そしてこの新しい紙マルチ田植機の栽培技術に対応出来なかった自分が情なく、家族にも、一日中話す事が出来ませんでした。

 枝豆の移植作業、メロンの摘芯作業と忙しさもピークの時期でした。

 再度、代掻し植え換えも考えました。しかし時期は遅すぎるし、補植しかないと覚悟し(コシヒカリ、でわのもち)の、有機の苗の都合をしようと仲間に電話をしました。

 被害は私程ではなくても、13名のうち4名が同じ様に紙マルチの下に稲が埋没し苦慮している事がわかりました。

 そして、その原因が潅水や風の影響ではなく地震によるものだという事が、、、、、。

 同じ被害の菅原孝明さんは、紙マルチの下の稲は、活着しているから、まだ大丈夫と下から苗を引き出しているという事でした。

 翌日5月28日、息子と2人で補植苗を少しだけ背負い、同じ様に作業を始めました。

 しかし、腰の痛さに落担も手伝い、遅々としてはかどらず、どうしたものかと思いあぐねている所に、ファームの仲間で一番若手の佐藤和則君と代表の佐藤清夫さん夫妻が応援にかけつけてくれました。

 「一町歩でこの作業はムリだ。紙マルチをはぐしかない。除草の対応は、後で考えよう。とにかく活着した稲だから、稲の力を信じよう。」

 その助言で1ha余りの紙マルチをはぎ、土の中に埋める決断をしました。5月29日昼まで、仲間に助けられながら、妻と息子の協力も得て、何とか1.2haの圃場に「稲がある」と見られる様な圃場に復活しました。

 「一生のうちいろんな事があるもんだ。」「百姓は、毎年1年生だもんな」そう思いながら、3度除草機を押しました。株間に繁茂したコナギに除草が追いつかず、今度は雑草に埋没しそうな圃場で、7月3日、今年初めてトンボを見ました。7月9日、せみの声がきこえました。


庄内協同ファ-ムだより 発行 No.95 2003年4月

それぞれの春

鶴岡市 五十嵐ひろ子 4月30日

今年こそ、ゆっくりと桜の花を楽しみたいものだと思っていたのに、春の農作業に追われ、気づいてみると、もう、葉桜。
でも、新芽が萌えるこの季節の山々は、色々な緑が競い合い美しい。その中に、淡いピンクの山桜が満開になるのもこの季節です。
桜の花見頃を逃してしまった私は、畑へ軽トラックを走らせる道すがらこの山桜の風景を楽しんでいます。田んぼでは、トラクターがエンジンの音を響かせて、耕起、代掻きと忙しく早い所では、田植えも始まります。
メロンの定植が終われば、だだちゃ豆の播種と定植が同時進行で続き春は、何もかもが始動の季節です。

我が家も、この春は4人の子供達が、それぞれ動きだしました。長男の就農、長女の大学卒業都内へ就職、双子の次女と三女は、それぞれ仙台近くの専門学校、地元の看護学校へ進学。それに伴い、受験や、卒業式、入学式や引越しが重なり、バタバタと目の回る忙しさ。それを挽回すべく、農作業に追われ、桜を眺めている時期を逃したのも仕方のない事です。
自分の夢を実現するために、親元を離れ自立して行く子供達。それは一抹の淋しさはあるものの、親としての役割をある程度果たせたかなと夫と話すこの頃です。

18年前、双子の女子が誕生し命名する時、夫はだいぶ悩んだそうです。特別な思いがあったのでしょう。それで古代の織物に紗綾織りと倭文織りという織り方があり、その縦糸と横糸のように助け合って、生きるようにと、紗綾香と志津香と名付けたとか。

日曜日、ハウスで仕事をしていると志津香が手ぬぐいを首にかけ、長靴姿で「母さん何か手伝うよ」なんて私の仕事場に来るのです。双子の姉と離れて淋しいのかもしれません。
私は「めずらしい種があるんだけど種播き手伝って」と誘います。今年の2月に「らでぃっしゅぼ-や」の東北大会の母さん集会で仙台に行った時、野口種苗さんに頂いた色んな在来種の種です、この種を娘と一緒に播きたいと思ったのです。甘露胡瓜、沖縄ゴーヤ、丸型ズッキーニ、チコリー、ヒロバキクジシャ等々、ファームのお母さん達にも分けようと思っているところです。
種を播き、芽が出て、花が咲き、やがて実を付ける、農家と子育ては同じだなあ、と長男が運転するトラクターの音を聞きながら思う、春の一日でした。


庄内協同ファ-ムだより 発行 No.94 2003年3月

神様と仏様

佐藤清夫 鶴岡市 2003/3/24

我が家には、仏壇とそのうえに神棚がある。宗派は浄土宗であり、神様のほうはみんなと同じ天照大神である。神様と仏様を一緒に祭ってあるのがこの辺の普通の家であり、小さいときは神様と仏様では、どちらがえらいのかと考えたことがあった。
神様については、「古事記」に書いてある国を造る国生みの話があるそうだが、その一説を書くと、イザナギノミコトはイザナミノミコトに「汝が身はいかにか成れる」と問うと、「吾が身は、成り成り成りて成り合わざる処一処あり」と答える。そこでイザナギノミコトは「我が身は、成り成りて成り余れる処一処あり。故、此の吾が身の成り余れる処を以ちて、汝が身の合わざる処にさし塞ぎて、国土を生みなさんとおもう」というのである。

このようにして、日本の国を造った神様はえらいに決まっているが、その製造方法は人間の所作とほとんど同じである。そしてたくさんの神様を造り、ヤオヨロズノ神はこのようにして出来たのだ。また、農家を取り囲む自然はすべて神様になっている。火の神、水の神、田の神、山の神と今でも活躍している。
一方仏様は、中国からの外国文化として入ってきたのが奈良時代になる。仏教も神道も多神教であるためかあまり排他的にはならずに、仲良く共存してきたのだという。
法然がいうところの「ナミアムダブツ」を唱えることで極楽に行くことができるという浄土教は、平安時代爆発的な流行だったという。何が当時の人達の心をとらえたのかはわからない。

今の私の「ナミアムダブツ」は生活習慣のひとつに過ぎないが、そんなにうまい話があるわけがない。また当時の人達にしても本当に極楽浄土なる所にいきたかったのかどうか疑問である。今は無料では極楽には行けないことになっている。
私の周りの人達は先祖を大事にする。正月、お盆、春彼岸、秋彼岸は先祖様が帰ってくる日である。出来る限りのご馳走でもてなすこととなっている。春祭り、秋祭りが両彼岸に当たる。これは神事であり神様の行事である。
先祖様が帰ってくるという考えは仏様にはない。極楽浄土というはるか遠くに行ったきりである。あまりに遠いから帰ってこられないのである。これらのことから見ると、
仏様より神様のほうがより深く我が家に影響を与えていることと思う。
皆さんのうちでははたしてどうだろうか?

2003年度・庄内協同ファーム生産者集会
「栽培技術講習会を終えて」

改正農薬取締法の施行を直前に控えた3月3日(月)に組合員、協力組合員を対象に栽培技術講習会が開かれました。

忙しい春作業に入る前の1日を、茨城大教授、中島紀一氏と、県農業試験場、上野正夫氏をお迎えしてご講演いただき、もっと大勢の人に聞いてもらいたかった、という感想を持ちました。中でも、今までに数回機会を得ている中島先生のご講演は、改正農薬取締法について、とてもわかり易く、独特のコメントを含めながら説明して下さり午前中があっという間に終わってしまいました。
 法律がこうも性急に施行されることになった理由のひとつには、昨年の無登録農業問題があったのは、周知の通りです。禁止農薬にもかかわらず、それが全国的に流通し、
使用されていた実態が明らかになり、国民の食に対する信頼を大きく損なう問題に発展したためです。

主な改正点を紹介すると
1. 登録農薬の製造、輸入、使用の禁止
2. 薬使用基準に違反する農薬使用の禁止
3.罰則の強化
の3点があげられます。

又、この法律の施行に当り、新たに無登録農薬の製造や使用を禁止したために、安全性が明らかなものまで農薬登録を義務付け過剰規制とならないように特定農薬という仕組みを作りました。

ところが、有機農業を目指す農民が化学農薬の代替として、編み出して来た工夫や、病害中防除や除草の為に水田に放すアイガモさえも、特定農薬として登録しないと使用は禁じられるという奇妙な結果を生むことになり“アイガモも農薬か?”と大きな論争を呼び、新聞記事を賑わしたことは皆さんの記憶にも新しいことと思います。
危険農薬の規制強化のはずが、論議は意外な方向へ発展し、先生いわく“これは、農薬行政からの煙幕だったのではないか”とのことですが、お話を伺ううちに思わず、なるほど、とうなずいてしまいました。

そして、私達生産者側から見れば、農薬取締法は、生産者自身や、生産者の健康を守るものでは決してなく、食卓の残留ppmを守るものだという事が、よく理解できたと思います。
そして、慌しく結んだ中島先生の一言。“農薬のリスクについて厳しい認識を持ち、農薬を使わない農業の可能性を消費者と手を取り合って本格的に進めなければならな
い。それ以外に生き残りの道はない。”いつもいつも、にこやかな笑顔で厳しいことを平然と言ってのける中島先生の貴重な結論でした。

 盛り上がった午前中の講演の後、簡単な昼食をすませ、午後は、県の有機農業の研究に関する中枢機関を職場とする、上野正夫氏の講演でした。
これから、県がどのような形で有機農業を推進してくれるのか、その為に今どのような事を行なっているのか興味津々であっただけに、ちょっと肩透かしを食ったような物
足りなさが残りました。「有機農業の技術的課題とその対応方法」の演題に寄せた期待はさておき、担当者の講演の中から有機農業推進に対する意欲や、力強さが汲みとれなかったことは、とても残念に思いました。

 あれから約1ヶ月、季節は進み、吹く風の中にも華やいだ春の匂いが満ちています。
生命あるものすべてが動き出す、この春こそが私達農民にとって1年の始まりです。稲倉の前に置かれた水槽には、既に温湯消毒を終えた種もみが、徐々に水分を含みながら時満ちて出番が来るのを待っています。
 あれもこれもと一気に作業が集中する4月をまだ全開になり切っていない頭と体で追いかけて行きます。再び巡り来た春に感謝し、今年も無病息災で大地と向き合う仕事を楽しみたいと思います。

発行事務局 志藤知子


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