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庄内協同ファ-ムだより 2002年5月 発行 No.85

紙マルチ田植えに取組んで

三川町 菅原 孝明

今年は、桜が平年より10日も早く咲き温暖な春作業で出発しましたが 平年になく寒い田植えになりました。昔から言われるように、季節はずれの暖かさが続くとその反動がどこかにくるという心配が的中してしまいました。強風と低温で苗は痛めつけられ、この頃インフルエンザが流行っているように、苗達も元気がありません。これからの天候の回復を願っています。
今年度から、有機栽培米面積の拡大を目指して協同ファーム組合員で、紙マルチ田植え機を導入しました。11名が取組み、慣れない機械の為みんな悪戦苦闘しています。
田面に除草対策として再生紙を敷きながら、その上に苗を植えていく田植え機です。苗の生育が遅れないように地温を上げる為、活生炭で着色した黒の再生紙を使います。60日間田面を覆い土に戻っていきます。除草対策としてはおおむね良好ですが、再生紙のコスト高が問題点として残り、又機械の作業能率が普通田植え機の3倍もかかります。後の草取り作業のことを考えて、ゆっくり進む作業です。

能率本位の作業を行ってきたいままでの考え方を大幅に切り替えなければなりません。今まで、合い鴨、鯉、トロトロ層等の農法を色々やってきましたが、サギに鯉が食べられたり、仕事を終えた鴨の処理に困ったり、苗のほうに害を与えたり、除草効果がいまいちだったり、どの方法も一長一短があります。紙マルチ農法の長所を生かし、沢山の有機米を皆さんにお届けできるよう頑張りますので楽しみにしていてください。

山形庄内平野の米作りが、小学校の社会科の教科書に載ったのがきっかけで、私の町では横浜の小学校との交流が始まり、昨年より農業体験として、田植え、メロン収穫などの2泊3日の修学旅行が行われています。その中で環境にやさしい農法という事で、私がやっている合鴨農法の田圃に見学にやって来ます。今から色々の質問がFAXで届いており、稲を食べる害虫はどんな種類がありますか等、米作りを一生懸命に勉強してきます。昨年は合鴨の役目を勉強してきました。鴨たちの役割は、草取り作業、虫を食べてくれる、土をかき混ぜて稲を元気にしてくれるなど、専門的な考えや見方がどんどん出てきます。その中で小学生に教わった事がありました。「鴨は、人を楽しませてくれます。」と言う意見でした。なるほど………

農作業の忙しさに追われ、ただ一目散に働くばかりでそんなゆとりがあったのか……と考えさせられました。いや私自身合鴨に楽しまされて農作業をしていたと再認識しました。
その鴨も今年は5月25日に田圃に入り、小学生は6月中旬にやってきます。今は、紙マルチ栽培の勉強をしているようで、賑やかな田圃のにわか学級で又今年も子供達に教えられることを楽しみにしているところです。この厳しい農業環境のなかでも楽しい農業をやりたいものです。

スケッチ

鶴岡市 冨樫 静子

今年は例年になく、季節が急いでいるようで、家のうらに咲くカタクリの花もいつもより10日位も早く咲きびっくりしました。また、小さな可憐な野の花たちも一斉に咲き、カエルも苗代に卵を産みつけています。自然の営みがやはり早くなっています。
1ヶ月前に播種された苗は、ビニールハウスの中で順調に育ち、グリーンのじゅうたんを敷き詰めたようでとてもきれいです。農薬を使っていない苗は、管理のミスで一晩で使い物にならなかったりするので気が抜けません。

昔から苗半作といって、苗の出来、不出来が収量に大きく影響します。栽培担当者の息子曰く「今年の苗は根っこが良くまあまあの出来ばえだの」就農3年目で少しずつ自信をつけてきたようです。
田んぼの代掻きも終え、いよいよ田植えのスタートです。庄内平野は息を吹き返した様に活気づきます。水田の水鏡にグリーンが映えとても美しい景色です。5日間かかりやっと田植えも終わりホッとしている矢先に、イネミズゾウムシの害虫が発生したと聞かされ、植え付けられたばかりなのに招かざる客の訪れに頭をかかえています。繁殖を抑える為に努力しているようです。

放っておけば葉や根が食害され、ひどい場合は稲がなくなってしまい、大変な減収につながります。安全な作物を生産するには、大変なリスクを伴います。手におえなくなる病害虫もあることを覚悟の上で、安全を第一に考え、作りたいように作っていく姿勢を変えず、家族が一つになって頑張っていけば、それに対する対策がみつかり乗り越えられるのだと思います。


庄内協同ファ-ムだより 2002年4月 発行 No.84

今なお 苦闘する減農薬栽培

藤島町 志籐 正一

春3月、今年も頑張るぞと春作業に入ったある日、1通の文書が我が家に舞い込んだ。
なんの前触れもなく減農薬栽培をすると周りに迷惑がかかるから、すぐにやめて慣行栽培並の防除をしなさいという通知であった。
産地偽装や狂牛病など、食べ物に対する信頼や安全性が問われる中、私たちの長年の産直活動や農産物有機栽培、減農薬栽培の認証の取り組みがようやく産地でも受け入れられつつあると思い始めた矢先のことである。

産地では今なお、見栄えがよく、大玉の柿つくりのためには基準通りに栽培することが一番で、防除回数を少なくした人の柿は共同販売にもにも入れられないという農協や栽培振興会の方針が幅を利かせている(もっともこれは青果市場や一般消費者の購買行動の反映なのだが)。
申し入れの内容と、私の回答は以下の通りである。内容は一方的で、受け入れがたいものなのだが、わずか40戸前後の集落で、共有地で柿を栽培し、朝晩顔を合わせ、一生つき合っていかなければならない人たちからこのような申し入れを受けること自体、栽培法や技術の悩み以上に、私や家族にとって胃が痛くなるような大きなストレスになる。しかし、ここで引くわけにはいかない。胃薬でも頭痛薬でも何でも飲んで今年も何とか頑張ってみよう、さすがといわれる安全でおいしい柿を作るために。

              申  入  書       平成14年3月21日
 志籐正一 様
                     鷺畑果樹組合長  ○ ○ ○ ○

鷺畑果樹組合樹園地内において貴殿の管理する樹園地内で落葉病及び病害虫が発生しており、近隣園地内の方々から迷惑が掛かっているという申し入れがありましたので今後の防除管理に関しては、振興会の防除回数に従い管理徹底をお願いします。
尚貴殿の防除管理体制を文章で提出お願いいたします。

鷺畑果樹組合代表理事  ○ ○ ○ ○ 殿
  H14.3.31
    志籐  正一

平成13年は柿生産者の懸命の努力にも関わらず、各地で落葉病が散見され、カメムシの異常な発生が続いた年でありました。追い打ちをかけるように柿の市況は奮わず、柿生産も本当の意味で正念場にきていると思います。日頃より、組合長をはじめ役員の皆様のご努力に感謝いたします。先の申し入れに対し回答いたします。
私が管理する園地で落葉病及び病虫害が発生し、近隣園地に迷惑がかかってとの指摘ですが、私としましては、方法はやや違いますが、落葉病を始め、病害虫の防除には努力をしてきたところであり、何らかの話し合いもなく、客観的な調査もないままに片方の見方によって迷惑がかかっているというような申しれには応じることができません。この様な一方的な措置は組織としての社会性が問われる恐れがありますので是非、再考をいただきたいと思います。従って防除の方法も、振興会の防除回数に従って実施する事はできかねます。

ただ、私の柿の管理方法や防除の方法が、他の組合員の皆様と違うことが、上記のような指摘を受けている原因となっていると思われますので、この機会に私の柿管理の方法、特に病虫害に対する考え方と、実際に行っていることについて説明し、振興会の防除回数に従って実施できない理由を申し上げ、理解を得たいと思います。

柿生産と防除の考え方

柿を含め、生物には、それぞれ、病気や虫による被害を防御しようとする力が備わっています。これらの多くは生物体内やその表面にいる微生物の働きによるものと考えられています。
私は、自然にある植物から発酵によって抽出されたエキス(天恵緑汁、玄米酢等)や木酢液などを葉面散布することで、生体の防御機能をできるだけ強化し、化学農薬による防除はできるだけ少なくしたいと考えております。これまで化学農薬以外のこれら資材の効果については殆ど省みられることはありませんでしたが、最近では試験研究機関でもその効果についての研究が始まっています。しかし、化学農薬のように歴然とした効果が常にあるというものではありませんので、主要病害虫に対しては化学農薬との組み合わせで防除したいと考えております。
又落葉病については、良好な有機物、発酵資材の投入によって樹勢を維持することで発症を押さえることになると考えております。

農薬について

私は15年来の産直販売の中で、消費者がいかに、農産物の農薬に対して疑念を抱いているかを聞かされ続けてきました。発ガン性や、環境ホルモン、世代間による人体蓄積など、健康や環境に対する影響を心配する声は大きくなることはあっても小さくなることはありません。店舗に並んだ商品以外に選択の余地がない消費者としては当然なのかもしれません。これらの消費者の要望を生産の現場ですべてを受け入れることはできませんが、私達の農産物をお金を出して買って食べてくれるのは、農協でもなく、青果市場でもなくこれらの消費者の人たちなのですから、できるだけの努力をすべきと考えます。したがって農薬の使用に際しては山形県の防除基準や、振興会の防除計画の中で、健康や環境に対して影響を与える疑いのないものを選んで使用しております。又、農薬ではない自然界にあるもので、防虫効果や殺虫効果があるといわれる資材も検討しています。

防除計画について

今年度の防除計画については改良普及センターに指導をお願いし、別紙の通り検討中ですが、さらに検討を重ね、万全を期したいと考えております。

防除計画について

蛇足になりますが、今後の柿経営について私の経験と考え方を申し上げさせていただきます。
現今の農産物の低価格傾向は、経済不況に依るところが多きいと思われますが、他の大きい要素として農産物に対する消費者の不信感のようなものがあるように思います。特に最近の産地偽装や狂牛病の問題がこれらの不信感を増幅させているようです。
大玉生産や、きれいな柿作りのために防除の回数を徹底し、品質をそろえていくことはこれまでの柿生産と市場対策にはどうしても必要な方法であったと思われますが、安心や安全を求める人々には驚異と写り、不信感を招くことも是非考えていただきたいと思います。私は、ここ10年来化学肥料を全く使わず農薬も最低限の押さえて使用しながら栽培してきましたが、生産量は10トンを超え、柿の糖度も16度前後を維持しています。その殆どを産直販売しており、価格も一定で消費者から安全でおいしい柿として好評を得ています。
藤島町でも、新町長が特色のある農産物や産地作りとその積極的な販売を公約しており、柿の栽培においてもこれまでの振興会の方針に加えて、生産者の努力や特長を生かした特色ある柿作りを取り入れることが産地果樹組合の活性化や消費地の評価信頼につながると思われます。本組合は、農協での共販だけでなく、独自に並品の販売に取り組んで組合員の経営に大きな貢献をしてきた実績があります。今後共ともいろいろな可能性に取り組んでいただきますようお願いを申し上げます。そのために必要な情報があれば伝えていきたいと思いますので、ご検討いただきますようよろしくお願いします。

スケッチ

鶴岡市 小野寺 美佐子

喚声を上げてる野球部の子供達に、私にもあんなはじけるような若い時があったのだと、まぶしい思いで見ていました。
50歳を目前にした私の身体は2~3年前から痛みを訴えるようになりました。この間も半身が痺れてきたと思ったら、頭痛に変わってきたので不安に思い、かかりつけの医師に駆け込みCTを撮ってもらいました。 所見は、「ストレスと過労」で問題はなかったものの、先生曰く「小野寺さん気持ちは20歳かもしれないけれど、身体は年相応だからあまり無理をしないように」だと。つまり更年期?ですか?

こんな体調だったけど、横浜に就職が決まった長男が、どんなところで働くのか、寮はどういう所にあるのか心配でついてゆきました。久しぶりに関東に出たこともあり、かねてより行ってみたかった「相田みつを記念館」に行きました。いい機会だからと息子を誘ったら、息子の友達もついてきました。今の若い人たちがこういう所に興味があるのか疑問でしたが、なんとまあじっくり見る事!相田みつをの詩が書いてある日めくりやキーホルダー等のグッズをしっかり買い込む姿に驚いてしまいました。
鶴岡を出て2年目の息子の友人が「あこがれて出てきた東京だけど、この頃帰りたいと思う時があるんだ」

家に戻った私は、しばし空虚感に襲われていました。そんなある日、中央公民館から前に出版した「菜なのキッチン」を使って料理講習をしてくれないかと話がありました。「菜なのキッチン」には郷土料理を中心に、若向けの料理や基本的な配膳の仕方、家庭料理ならではのちょっとした工夫等が解り易く載せてあります。
私たちの育てた野菜をもっと食べて欲しい、昔から食べてきた料理を次代につなぎたいと思い仲間達と作ったカード式の本です。思いの外評判が良くて、地産地消やスローフードが謳われる折、家庭料理がこれからの私の活路につながるのではないかと、とてもうれしく思っています。
また、ついこの間、念願だった農家民宿の認可がおりました。人と食と自然の宝庫のこの庄内をどのようにアピールしていくのか、未知数な課題に、眠りかけていた私のやる気が頭を持ち上げています。
政治も社会も農業状勢も不安だらけで、何を信じていいのか解らない時代ですが、私は迷うことなく
“いちずに一本道、
いちずに一つの事”
(相田みつを)
そんな気持ちで、これからも“農と食”に携わってゆきたいと思っています。


庄内協同ファ-ムだより 2002年2.3月 発行 No.83

先月2月16日土曜日、庄内協同ファームでは2002年生産者集会を行いました。アファスシステムを導入してから始まったこの集会は、今回で2回目を迎えました。
今回のファーム便りは、生産者集会の模様と、その中で行われた講演会の話を、皆様にお伝えしたいと思います。

~2002年生産者集会~

集会には、生産者約30名参加しました。最初に、環境管理責任者である齋藤健一より2001年度アファスシステムの反省と課題が伝えられました。はじめに、BSE(狂牛病)、雪印食品問題、食品表示への不信感、安全性への不安等の消費者が、気にかけている食に対する不安にふれ、そうした不安を少しでも取り除く方法は、情報の公開が必要だという事を、生産者と再確認をしました。
次に、アファスシステムの目的・目標の達成度の報告をしました。目的・目標は、今年度の目的・目標は、ほぼ達成しており、引き続き継続をしていく事を確認しました。
まとめとして、消費者に情報公開を迅速にする為、作業日誌の記帳を早めにし情報集約が必要である。それと同時に記帳により農業経営の改善の為にも活用して欲しいという事を伝え、反省と報告を終えました。
続いて生産者を代表し、2名の生産者から2001年度の実践報告がされ、休憩を挟み、中島紀一氏より講演して頂iきました。

情勢激変下の戦略論
「崩壊の時代」に生きる普遍的庶民像

茨城大学農学部教授  中島 紀一

激変する時代

結論から言ってしまえば、2002年の状況は数百年単位の激動が始まってしまったと言えるだろう。ニューヨークの同時多発テロによって、時代の方向性は極めて鮮明になってしまった。マイカルの倒産、ダイエーの事実上の倒産、kマートの倒産、ユニクロ現象の一般化とユニクロの自滅といったことが毎日のように発生する。景気は循環的に動くと言われてきたが、現在の景気動向は循環的景気動向ではなく、構造的崩壊であり、恐慌的状況と言えるのではないか。

1929年の世界大恐慌と同じような状況になっている。1930年代の大恐慌は経済危機を戦争で切り抜けたが、現代で世界戦争が始まれば地球全体の崩壊が起きてしまう。これからは、地域紛争が増大し、途上国のいくつかが潰れる。さらに先進国のいくつかも潰れなければ解決がつかない状況に向かっている。
こうした激変する時代状況の中で、日本は本格的な空洞化が始まり、消費だけがある国家となってしまった。タンス貯金が無くなれば、日本は終わりとなる。「構造改革」は混乱を拡大深化し、成長理念下での崩壊は悲惨な共食い競合を創り出してしまう。しかも、こうした時代の流れは止まらず、政策的に止めることが出来ない時代に入ってしまった。

こうした時代状況の中で、政策・政治・運動の意味の転換が必要なのではないか。雪印食品の問題では、言葉=理性の信頼が崩壊されてしまったし、日本の生協と農民の運動がここ数十年で築き上げてきた「安全な食品は日本の大地から」というスローガンは完全に解体してしまい、こうした運動が何であったのかが問われる事態になってしまった。「安全性と環境保全のために」は「生産、加工を海外に移転した方が良い」とする発言がされ始めている。こうした経済、農業の状況をみると、日本の農家は基本的に崩壊状況にあると言えるのではないか。

崩壊的現実を厳しく見つめることから始まる21世紀の農業

こうした経済の崩壊状況によって、消費者の輸入品への拒絶感はほぼ壊れてしまった。消費者は、安全性には目もくれず、価格の高い物は買わないという消費動向になっている。従来は統一の卸売り価格で農産物価格が決まってきたが、野菜の価格に見られるように、中国野菜によって価格が決まる時代の到来になってしまった。輸入農産物は契約価格で決まり、過剰流通時の価格はせりではなくすべて入札で決まり、価格はすべて下がっていく。

こうして、農産物の雪崩的輸入は開始され、農産物の取引の基本は、輸入品の商慣行に変わっていく。国が育成しようとしてきた産業型農業は、ここにきて深刻な行き詰まりをみせている。しかしながら、産業型農業が行き詰まる一方で、直売所、女性起業などの生活型農業、地域社会型農業はすこぶる元気だ。こうした農業の担い手の中心は女性と高齢者だ。そこで、崩壊の時代を庶民はどのように生きるのかが問われてくる。
芭蕉の句で、「夏草や、強者どもが夢の跡」という句は、庶民の視点からの句ではない。国が破れても、豊かな地域と豊かな暮らしと豊かな農業と自然は残るのだ。

環境、生活、地域重視の農業戦略 ~より農業らしく、田舎らしく~

新しい時代の理念は、「あまりお金を掛けずに豊かに暮らせる地域社会」と言えるのではないか。農業の世界は、「お金がなくても暮らしは出来る」社会ではなかったか。お金の無い暮らしは貧しいのだろうか。お金が無くても豊かな暮らしは可能なのではないかという価値観の変換が必要なのではないだろうか。都市においても、有償ボランティアや地域貨幣への取り組みが始まったり、労働時間を減らし、労賃は下がるが首切りを回避し、労働を共有するワークシェアリングに取り組む企業が増えてきている。

農業と農村は、もともとお金が無くても暮らせる世界だった。都市は労働のすべてを賃金に換えて買い食いをして暮らす世界だが、農家は暮らしに必要なものは自分達で創って暮らしてきたのではなかったか。そうした世界、暮らしの拠点として庄内協同ファームを創造してゆくことを期待したい。お互い、お金から距離を置いた世界を構築しよう。日本農業の論理的構造をそうした方向に変革していこう。

大量生産=大量消費からの脱却と良質少量生産=良質少量消費への移行という方向が崩壊的現実後の農業のイメージとなるのではないか。環境保全型農業から環境創造型農業へ。産業型農業から地域創造型農業へ。買い食い依存型生活様式から自給自立型生活様式へ、が崩壊の時代に生きる普遍的庶民像であることを提案し、私の講演を終わります。

要約者 富樫英治

スケッチ

藤島町 志藤知子

今年の庄内は例年になく雪どけが早く、私の住んでいる里山にも、しっかりとつぼみをだいたふきのとうが芽を出しています。
 この季節、私の住む村の主な仕事は、柿の剪定作業です。雪が消えたばかりの地肌は、どこかでこぼこしていて、とても美しいとは言えないのですが、春の気配を感じた草や、地中の生き物たちが、ムクムクと動き出しそうな気がします。そこら中に春の息吹が漂う仕事始めです。
 顔を出したばかりの湿った大地の上に立ち、柿の木を見上げながら、仕事をしているうちに、体もだんだんと冬の眠りから醒めて、春をまとっていきます。やわらかな日差しの中にも、時折冬の名残の膚寒さが吹き抜ける木立の中で、若葉の頃を想定しながらの作業は、春の繁忙期までの肩ならしという所でしょうか。

 1年の始まりのこの季節にあって、食べ物の生産に携わる私の頭の中によぎるのは、今多くの人達が感じている食に対する不安です。狂牛病問題はもとより、食べ物を選ぶ手がかりになるはずの食品表示が、実は信ずるに足りないものだったという事実は、大きな絶望感を以って人々の心から“信頼”の二文字を奪いました。あってはならないことです。一部の不心得な人達の行為によって、食品や農畜産物全体に、区別なく、不信感が及んでしまったことは、とても残念なことです。
 そんな中にあって、私達生産者に出来る事、それは、農産物の履歴をはっきりさせておくことです。自分のどの圃場で、いつ、どんな作業を、どんな資材や、器具機械を使って行ったかを細かく記録に残しておくことです。

 幸い私達は、認証を取る為に三年前からこの記録に取り組み、慣れない記帳もようやく習慣として定着しつつあります。作目毎に、栽培計画から実績、保管や出荷に至るまで、検索できるしくみになっています。記帳にさく時間はかなりのものになっていますが、安全を提供する為の作業は、生産者としての責務という考えに立ち、各々が頑張っています。
 安心、安全にこだわっての食べ物作りに励むに日々の努力がまっすぐに食べる人に届くよう、あたり前の事があたり前に行なわれる世の中であるように、と願わずにはいられません。
 巡り来る春も迎える度に、体の底から湧きあがってくる百姓としてのエネルギーが、自然とうまくかみ合って、今年もまた、出来秋を迎えることが出来ますようにと祈るばかりです。


庄内協同ファ-ムだより 2002年1月 発行 No.82

はじめまして

余目町 中村公明

新組合員になった中村公明です。よろしくお願いします。
昨年まで5人でJファーマーズ余目という組織ををくり米作りをしていました。
一発除草剤の一回きりの栽培でしたが、一年一年が病害虫の被害が心配でした。木酢液の散布で何とか乗切ってきました。
その田からの生産物は安全、安心、うまいと思っていますが、果たしてその圃場を維持、継続また今以上に自然な状態でもっていくことが出来るのか。
和牛5頭の堆肥(ワラ+モミガラ+糞)を春に散布し、元肥の減量あるいは元肥無施用で栽培していますが、5年10年と経過後その圃場の状態がどのように土壌変化してゆくのが心配なところです。ただ、堆肥を大量に投入を続けてゆけば維持できるのかそうしたところ、今回の1月19日に行なわれる土壌分析の技術講習会は楽しみにしているところです。これから有機米、除一米を作ってゆく上での問題は山積ですが、自分としては協同ファームのこれからの活動に期待をしておるところです。皆さんからいろいろ指導をいただき、経営面、技術面に反映させていきたいと考えております。

これからの農業は、環境面を重視した方向に行くのは間違いない事だと思いますが、そのしわ寄せをすべて生産者が責任を負わなければならないのは、行政サイドの怠慢というべきでしょうし、両方の考えを総合的にかみ合ったところに本来の環境重視型の農業経営が生まれて来るように思います。生産者のみが走りすぎ、また行政が政策を押し付ける形での問題解決ではないように思います。


庄内協同ファ-ムだより 2001年12月 発行No.81特別号

夢はまだ一次発酵

2時間の家出

夢はまだ一次発酵

「あんた、この家の何が不満だなだ!」夜もふけた茶の間の隅で、怒り口調の母が言った。後継ぎという運命、自分の将来、好きな人のこと、結婚の障害、考えても悩んでも答えの見つからない問題に、頭の中がパンクしてしまいそうだった。「何もかも不満だっ!」そう叫んだと同時に、太陽が沈むのと一緒に就寝している祖父が、安眠を妨害されて、プリプリ怒って部屋から出てきた。「お前だぢうるさぐで、寝らんねー!」その言葉で、私の頭はプツンと切れた。「こんな家、出てってやるー!!」まだ肌寒い4月の夜空の下、勢いだけで私は家を飛び出していた。大学3年生、私は二十歳になったばかりだった。まさか、この自分が家出してしまうとは。我ながら動揺してしまった。思いの他、外は寒く、こんなことなら上着と財布くらいは用意しとくんだったと、すぐに後悔したが、出たからには後には引けない。とりあえず、近所のコンビニまでいこう。「実は家出をしてしまって…」訳を話して、店長に20円を借り、高校時代から付き合っていた彼氏に電話をして、迎えを頼んだ。彼が迎えに着いた頃には、もう日付が変わっていた。「ノリが思ってることきちんと話して、話合ったほうがいいよ、家まで送っていくから」彼氏にそう言われ、渋々家に帰ることにした。

家族会議酵

 家では、重苦しい雰囲気の中、両親と私とで家族会議が開かれた。「二十歳にもなってこんな子供みたいなことをして」と父がしきりに言っていた。何が不満なのか言ってみろといわれ、確かに不満は山ほどあるのだけれど、最近感じ始めた自分の中の息が詰まるような苦しさの根源は何なのだろうと、その時になって改めて考えてみたのだった。
 山形県の米どころ、庄内平野の稲作専業農家に二人姉妹の長女として生まれ、幼い頃から後継ぎを期待されて育った。「あたし、農家を継ぐよ」そう言いさえすれば、家族が安心することを子供心にわかっていた。「女の子なのにえらいね」いつもそう誉められた。高校までは自分自身それに満足していたのだ。それが、大学3年となり、周囲の友達が見なれないスーツ姿で就職活動をするようになって、自分には関係のないことなのに、気持ちばかり焦るようになっていた。私には始めから、農業という職業の選択肢しかなかった。それがあたりまえだと思ってきたけれど、本当にそれは自分の意思で決めたことなのか?家の期待に添うように選んできただけではないのだろうか?農業はする、でもいったいどんな農業を自分はしたいのだろうと正面から考えだしたのは初めての事だった。
稲作とは違う自分らしい農業を見つけようと、手当たり次第本を読んだ。先生に相談してみた。とにかく今目指す目標がほしかった。しかし、焦る気持ちが強すぎてうつ病のような状態に陥ってしまっていた。息苦しさの原因はもうひとつあった。彼氏のことだ。高校時代からの付き合いで、いずれは結婚したいとぼんやりと考え始めていた。母にそのことを言うと「彼がすごくいい子なのはわかるけれど、一人っ子じゃ家に婿にはこられないんだから諦めなさい」と言われた。「じゃあ、あたしの人生は好きな人とも結婚できないようなものなの?」憤慨する私に、心底気の毒という顔で「可愛そうに…」と母は言った。可愛そうに…そうかたずけられてしまったことに、怒りよりもむなしさが先に立った。私の力では抗えない江戸時代から続く農家、『富樫家』が壁のように立ち塞がっているのだった。

「いい子」卒業

 「俺がいつおまえに農業を押し付けたんだ」声を荒げた父が言った。すると、母が「父さんやっぱり押し付けてるよ、何も言わなくても感じるんだよ」と言い、父はしばらく黙っていた。そして、「おまえはどうしてそういい子でいようとするんだ」と言った。それを聞いたら、なんだかもう悲しくて、今まで自分が頑張ったり悩んだりしてきたことは何だったのだろうと虚しく思えてきた。親に対する怒りのような想いが溢れてきたが、冷静になって考えてみた時、なぜ自分はこんなにも期待に応える「いい子」でいなければと、無意識の中で思っていたのだろう、という疑問も感じた。そして、その答えとして、それは、自分に対する自信の無さだった気がするのだ。自分の考えたことが、たとえはったりだとしても、親のいうことよりも正しいということのできる自信が自分にはなかったから、だから、「いい子」でいることにとりあえず逃げていたのかなあと。それに、他にやりたいことがあったら、もっと早くに農業やらない、お嫁に行くと言えたはずなのだ。それが出来ずに悩んだりしたのは、やっぱり自分の中に農業が好きで、父と母のようにケンカしたり笑いあったりしながら好きな人と一緒に農業をしてみたいという想いがあったからなんだろうなと気が付いた。親を裏切るとかそういうことではなくて、自分自身の思いが、親に対しても譲れなくなってくる。それは当然のことなんだ、たぶんこれが、成長するということなのかなあと思った。自分の人生の責任を誰かのせいには絶対したくないから、だからこそ、できることなら、自分のやりたいような農業、生き方をしていきたいなあと思うのだ。
 この一件のおかげで、今まで心の中に引っかかっていたものがとれて、「私の人生は私自身のものなんだ」と言いきれるようになったら、かなり気持ちはスッキリした。父は次の日カゼをひいて、2,3日寝込んでいたが、寝込んだ理由はカゼのせいだけじゃないらしいよ。と母は私に笑いながら言っていた。今思えば、家出もしてみるもんだと思う。こんなことがなければ、お互いを理解することも無かっただろうし、自分自身の気持ちや変化に気が付かないでいたかもしれない。

長野に行こう!

 家出事件以来、少しずつ家を継ぐということではなく、自分がやりたい農業とは何かを、
考え始めるようになった。家は稲作を中心とした専業農家だったが、実を言うと米にはあまり興味が持てなかった。輸入米がどんどんと国内に入ってくるし、減反や青田刈りが相変わらず行われている。この現状に追い討ちをかけるように、米の価格は下がり、米の消費量自体が減少していた。米どころ庄内平野でありながら、米に見切りをつけて、花卉に力を入れる農家が我が家の周りでも目立つようになってきていた。米だけに執着していてはだめだ、何か違う新しいことをやらなくては!そして思いついたのが、ラズベリーを栽培することだった。まだ日本では栽培事例が少なく、デザートなどへの需要も伸びていきそうだった。ラズベリーのことを勉強してみたい。本で調べると、涼しいところを好むラズベリーは信州で少し栽培されていた。長野に行こう!八ヶ岳にある中央農業実践大学校へ行って、ラズベリーと花の実習をやってみよう!

 

 入学式は全員白がまぶしいつなぎを着用とのことだった。つくづく、スーツには縁が無いなあと思ったが、実践を重んじるこの学校の精神を感じるにはふさわしい伝統のような気もした。しかしながら、学校に果樹のプロジェクトは無く、ラズベリーを知る人も少なかった。学校は、私ひとりの為に担当の先生をつけて下さり、週に2回学校を出て、ラズベリー園をはじめ、りんご園、ブルーべリー園などの農家に実習へ行くことを許可してくれた。幸運なことに、学校と同じ原村に日本でも数少ないラズベリー専門の農園があり、一緒に作業を手伝わせていてだく機会を得た。農場主のおじさんはもともと農家ではなかった。違う仕事をしていたが、若い頃アメリカに農業研修に行った時に食べたラズベリーの味が忘れられず、定年を過ぎ夢をかなえるべくラズベリー農園を作ったのだと言う。整然と整備された園内を見ていると、自分はいつになったらここまで追いつけるんだろうと焦ってしまうと告げると、おじさんは「そんなに焦ってはいけないよ。たくさん経験してたくさん失敗してやっとわかることばかりなんだから。おじさんだって、もう10年近くここをやっているけれど、どんな肥料をやるか、いつ頃剪定してみるか、わからないことばかり、毎年挑戦しているんだ。だから、農業は面白いのだけどね」といって笑った。挑戦し続けるおじさんは、不思議と歳を感じなかった。おじさんの紹介で、ラズベリーをはじめとする、有機や無農薬などこだわりの果物でジャムだけをつくる、『ジャム工房とりはた』に山梨まで訪ねていった。訪ねた日はちょうどブルーベリーのジャムを作る日で、甘酸っぱい香りが部屋中にたちこめていた。ひとつひとつ手作業でビン詰めするのを手伝いながら話を聞いた。「数え切れないほど失敗したよ。こうすればもっとおいしいよなんてお客さんに教えてもらったこともたくさんあるし。十年経って、ようやくスタートラインに立てたかなあという気がするよ」独学でジャムづくりを学び、材料は自分が納得いくものを探し歩き、旬のものしか作らない。水や添加物を一切使わないその味は、こくがあって優しく、なんだか懐かしい味だった。
 ラズベリー園のおじさんもジャム工房のおじさんも、道なき道を切り開いてきた人たちだ。失敗を恐れてはいけない、失敗こそ先生。大切なことは夢を諦めない情熱をもつことなんだ。そう、二人に教えられたような気がした。

 11月になると、私達研究科は4ヶ月間の農家研修に出る。私は群馬のワイルドフラワーを栽培する農家と埼玉の観光農園に研修が決まった。花と観光、どちらも華やかで憧れる農業だ。研修中にできるだけ多くを学び取り、自分の実家でもやってみたい。そう心に決めて臨んだ農家研修だったが、研修を終えて思ったことは、意外にも「同じようにはできない」という思いだった。適地適作、農業はその土地の気候、風土、立地条件それらを克服しうまく利用してこそ成り立つもの。外ばかり追いかけていたけれど、私はもっと地元を知らなくてはならない。見飽きたはずの田園風景が、稲作には恵まれたみのりはぐくむ豊かな環境として思い出された。
 研修を終えて学校に戻ると、今度は卒論の執筆が待っていた。テーマがなかなか決まらず、苦し紛れに現代農業で見つけた「米パン」についてとりあげた。ラズベリーをジャムにして、パンとセットにして売ったらいいかなという安直な考えで、米をどうにかしようと考えたわけではなかった。ところが、調べてみるとこれがなかなか面白い。働く女性や単身生活者の増加で、手をかけずに食べられる米パンの利用される可能性はますます高まってきている。そればかりか、米の消費拡大や国内自給率の向上、減反地・耕作放棄地の水田利用、水田の持つ多面的機能の維持、学校給食への供給を通した農業教育など、今米を取り巻いているマイナス要因を一気に覆し、余りあるほどのパワーを持っている。それに、有機野菜を作ってサンドイッチにもできるし、雑穀や果樹を利用して雑穀パンや手作りジャムパンなどもつくれる。パン屋の店内でお米や野菜を売ったっていいじゃないか。米パンのお陰でなんて楽しい「農的生活」が出来るんだろう!ほわーん、夢いっぱいだ。でもこの膨らんだ夢は一次発酵(パンづくり的に言うと)にすぎない。この夢を現実のものとするか、夢で終わらせるかは、その後の自分の行動力にかかっている。お米はだめだと思って遠回りしてきたけれど、結局はお米に戻ってきた自分がなんだか不思議な気がする。

農家一年生

 今年の4月から、私は実家に戻り、農家1年目のスタートを切った。就農早々、5月に祖父が亡くなった。私に最もプレッシャーをかけ、そして、私が就農することを最も待ち望んでいたのが祖父だった。仕事と病院の往復でとても忙しい日々だったが、自分のいることで少なからず家族を助けていると実感できたことは私にとってはうれしいことだった。気が付いていなかったけれど、自分はこの家に、この家族に守られて育ってきたのだ。そして、これからは、自分が家族を守り支えていく立場なのだと感じた。だんだんと意識が朦朧としていくなかで、祖父は枕もとに私を呼び、はっきりとこう言った。「紀子、夢を持で。夢を持たなくなったら農業はつぶれる」と。祖父は私に、最期の最後に一番大切なことを教えてくれた。すごくおおきな何かを私はその時、引き継いだような気がした。
 農業で生活を支えていくということは、簡単なことではない。農産物の価格は決して高いとは言えないし、市場や天候に常に左右され、輸入農産物にも押され気味だ。どんな時代でも、農業はいつも厳しい状況にあったのだけれど、そんな中で、曽祖父は田んぼの開拓に、祖父は酪農と稲作の複合経営に、そして父たちは餅加工品などを産直する農事組合法人に夢を託してきたのだ。
 私がしてきたことはまだ何もない。ラズベリー園をつくることも米パンをつくることもまだ私の夢でしかない。でも、全ての仕事の始まりは夢をもつことからはじまるのではないだろうか。強力なサポーターもできた。私が家出をした時に、夜中にもかかわらず迎えにきてくれた、あの彼と来年結婚することになった。「のりの夢を一緒に叶えたい」そう言ってくれた。以前は反対していた両親も今は祝福してくれている。
 見渡す限り黄金色となった田んぼが風に揺れている。農業へ夢を託し、受け継がれてきたバトンを握り、私は今スタートを切ったばかりだ。


庄内協同ファ-ムだより 2001年12月 発行 No.81

すごい1年だったなーと思う今年もあとわずか。

代表理事 佐藤清夫

今年1年の協同ファームを振り返ってみます。近年暖冬のせいか、たいした雪もなく過ごしてきたのに、1月、2月の地吹雪はかなりの激しさでした。3月、組合員の作付け会議を拡大した生産者大会を催し、今年の庄内協同ファームの事業の大枠と方向付けが確認されました。6月、新加工場に引っ越し、事務所移転、7月には加工設備の移転と竣工祝賀会、竣工記念シンポジュウムを開催しました。その時にはたくさんの方々から励ましの言葉を頂き嬉しく思い、私達一人一人の決意が今まさに問われていく事になると思いました。

5月、6月は天候に恵まれ稲作や畑作物が順調に生育し、7月後半は気温が高く、ほとんどの作物の出荷が早まりました。8月になるとすごしやすい日が続き、だだちゃ豆は糖度の乗りも良く、後半にはアブラムシの発生が多く、唐辛子エキスを何度も散布しました。重い防除のホースを担いでの作業は辛いのですが有機栽培の為にとみんな頑張りました。9月の稲刈はカメムシの発生をとても心配しながらの作業ですが籾摺りの段階にならないと結果は判らなく、すくい取り調査をしたり地元の農協や生産組合組織に申し入れをしたりしました。
10月にはもう新加工場での餅つきが始まり、新しい環境での段取りや予測が呑込めずに苦労しました。11月12月には庄内協同ファーム餅製造の最盛期に入りました。
しかし世の中はとんでもない事件の連続で、アメリカの同時多発テロ事件は全世界の人々を震撼させ平和な世界が一夜にして崩れ去るのを目前にした事で、人間の存在そのものの在りようを考えさせられた事件でした。その影響で日本では倒産に追い込まれた企業が出ました。そしてアメリカのアフガニスタンに対するテロへの報復攻撃が始まりました。その報道をテレビで見ていると、人類の歩んできた道は進歩なのか後退なのか訳わからない気持ちと、悲しい気持ちになってしまいました。

そして今度は狂牛病(BSE)です。確かに食べる消費者の安全は守られなくてはならないのですが、後手後手に回った国の施策が牛を飼っている農家の苦しみを益々大きくしているのではと、苛立つだけでした。スーパーや生協では牛肉の販売高が急落したと嘆き生産者は風評被害があり、年を越す直前の今、泣くに泣けない状況に立たされていると思いますが、その責任は一体誰にあるのでしょうか。まさに日本経済の凋落と日本の政治体制の脆弱さが突出した年だったと思います。

そんな中でイチローと高橋尚子さんは日本人に夢を思い出させてくれたのではないでしょうか。救われる思いでした。自分を信じて日々の課題を克服し夢を達成する二人の生き方は、すがすがしい気持ちにさせてくれます。俺も頑張ろう、協同ファームも頑張ろうと。

今年もたくさんの協同ファームの加工品、農産物をご利用頂き本当に有難うございました。これからもどんな世の中になろうともこのような食べる人、作る人、まちびと、むらびとの良い関係を継続して頂きたいと思っています。身体に気をつけてお互い元気ですごしたいものです。よいお年を。

種を採る

鶴岡市 五十嵐良一

「基本的に稲は自家授粉をして種子を残すのだが、条件により花粉が数キロメートルも飛散し、他品種と交雑する場合があり、黒米の花粉が3km離れた地点で交雑し、ウルチ米種子の形質の中に10%程度認められたものがあり、又、モチ米の種子80数種調査のうち純粋種は23種のみ。」

先日開催された、「手をつなぐ無農薬、有機稲作農家」の全国交流集会「遺伝子組み替え育苗問題」分科会席上での報告です。br>
庄内協同ファームでは昨年より有機栽培の認証を受けた餅加工にも取り組みはじめました。私の有機栽培でわのもち60aも収量に課題は残したものの、42.5俵と27㎏、そして種籾用60㎏を残し、なんとか無事に収穫調整作業も終え、11月23日勤労感謝の日に例年どおりに「田の神あげ」をして家族で餅をつき喜びあいました。
翌日には、庄内協同ファームで稲作の栽培実績検討会を行い、有機栽培について種子消毒や育苗床土、育苗方法、そして合鴨水稲同時栽培、米ヌカボカシトロトロ層での栽培、米ヌカペレットでの除草、不耕起のトロトロ層紙マルチ栽培、有機肥料の肥効結果、食味値の分析結果など1年の成果を報告してもらい来年に向けての反省点、改善点、課題など話し合われまとめました。

私も春からの作付けに当たり課題を設けていました。もち米の有機栽培の種子を次年に備え自家採種してみるという事でした。JAS法では、採種も「有機栽培された種子を用いなければならないとあり、ただし書きがあって「通常の方法によって入手が困難な場合はこの限りではない」となっています。
しかし、何とか有機種子を自家採取したいと思い、昨年迄の種子消毒、温湯浸法57℃7分を60℃まであげ、浸種、催芽、播種を試しました。ところが、ひとめぼれ、はえぬきは、ほぼ完全に発芽したものの、でわのもちは8割に満たない程のまばらさで、催芽、播種のしなおしも考えましたが、なんとか田植が出来、収穫、そして採種にこぎつけました。

それでも、来年に向けての作付けは、細心の注意を払うつもりでも、ウルチ米の混入や、モチ米特有のウルチ米との交雑による「キセニア現象」の発現が心配です。br>
実は、平成5年の大冷害の年に「キセニア現象」という事で、でわのもちとはえぬきの出穂時期が重なり、交雑したモチ種子が農協より購入できなかった経験があります。
確かその時は、「逆塩水選」という形で、モチ種子をウルチ種子用の比重選を行い、浮いた籾を再び、低い比重で塩水選を行った記憶があります。あの時は隣県の他品種の種子を作付けした仲間もいました。ここ庄内では、例年になく早い地吹雪が舞い始めました。自然の摂理の中で思う様には歩めない、有機栽培の実際ですが仲間と共に、この場所で受けとめたいと思っています。


庄内協同ファ-ムだより 2001年11月 発行 No.80

新組合員の工藤広幸です

余目町   工藤 広幸

天気予報に雪だるまのマークがちらほら見え出し、本格的な冬を前に何かと気ぜわしい毎日を過ごしております。
鳥海山、月山は中腹まで雪で覆われ、田んぼには冬の使者、白鳥がえさを求めて、群れをなして飛来し晴天の日は素晴らしいコントラストを描いております。
今年から正組合員としてお世話になることになりました工藤広幸です。ナチュラルコープ横浜の皆様には、J.ファーマーズあまるめとしてササニシキを供給させて頂いてましたが、今年から庄内協同ファームを通して産直することになりましたので、今迄同様の御愛顧の程、宜しくお願いします。
私の経営内容を紹介します。

水田、自作地が5.1ha、受託地が6.0haで今年稲を作付したのが8.7ha。その内、庄内協同ファームに出荷する減農薬米が2.6ha(ササニシキ・ひとめぼれ)です。他に作業受託(耕起、代掻、田植、刈取)3.0ha、転作大豆が受託を含め4.0haでこれが稲作部門です。それに園特部門にハウスが650坪あまり、作っているものはトルコキキョウ、ストック、カスミソウ、それに3,000個の菌床しいたけ栽培です。

今年の作型は、カスミソウが田植えの終わった5月末から6月始めに出荷、6月下旬からトルコキキョウが現在まで、ストックが10月末から来年の3月まで、しいたけが11月末から4月までと1年中稲作とあまりかち合わないように出荷の栽培体制としております。
妻と二人、忙しい時には、シルバー人材やパートを雇用しながら毎日、『農業は金はなくてもリストラもなくていいの』と話しながら働いております。
11月始めに北九州市で開催された全国認定農業者サミットに参加してきました。全国各地から2000人の農業者が集い「くらしといのちを考える国際化の中の農業経営」をテーマに基調講演と分科会討議が行われました。農産物輸入問題(セーフガード、WTO)、狂牛病、コメ政策の見直し問題等、多岐にわたり日本農業の直面してる課題を考えさせられました。
国際化の中で農業も工業製品と同じで、大企業が地球規模で原料調達、加工システムを作っており自動車産業と変わらない状態になっている。東アジア(日・韓中)はいまや最大の農産物輸入市場に成長し、消費者がユニクロ戦略になびいてしまえば日本農業は生き残れないと講演があり、その対策としては生産者と消費者が互いに理解しえることが大事、顔の見える交流を通し消費者の安全を考えた農業をしている生産者との結びつきが重要との事でした。
私もなるべく農薬を使わないで米を作り、自然を大切に環境に負荷をかけない農業を目指し頑張りたいと思います。皆さんの食卓が家族の笑顔でつつまれる事をいつも考え日々の農作業に精を出しております。安全と安心、おいしさを求めて米を作り続けますのでどうぞ一杯といわず、二杯、三杯たくさんご飯を食べてください。

スケッチ

広報事務局 志藤 知子

藤島町の中心街を抜け、鳥海山の雄姿を望みながら少し行くと、我が新工場、庄内協同ファームの建物が見えてくる。グレーの外壁に赤い屋根、黒地に白抜きの看板,組合員が再びの夢をかけ構えた新工場である。
11月19日、私が向かったこの日、フルメンバーに近い季節従業員を迎え、夏の間は広々としていた駐車場には、所狭しと車が並んでいた。出社人数は45名。餅製造もいよいよ最盛期に入る。
始業5分前の朝礼、迎える人も迎えられる人も少し緊張ぎみのすべり出し。ロッカールームで作業着に着替え、7項目のチェック表に沿って、着衣の点検をする。各々の配置場所へ入ると、手洗いをし、更にアルコールで消毒を済ませ、作業開始となる。
人員の配置が無事に済み、各々の場所でスムーズに動き出した頃、餅の製造手順に添って工場の中を歩いてみた。
まずは事務室から一番遠い精米センター。各組合員が運び込んだうるち米、もち米が整然と積んであり、大きな機械の前で、担当の組合員が精米作業をしていた。

原材料が積んであるストックヤードを素通りして洗米、蒸米室へと向かう。
自動洗米機2台と、蒸し機が3台あり蒸し器からはあったかそうな湯気が立ちのぼっている。蒸し機から蒸し米が壁を通して次室へ押し出されてゆく。
壁の裏側へと、蒸し米を追いかけていくとそこは餅製造室。餅つき機が5台並んでいた。隣りあった2台で交互について、1ラインなのだそうだ。1台は、有事の時の備え、4台が休みなく動く頃は、餅つきも山場といったところ。

 

この時間は丸もちを製造していた。隣室から押し出されてきた蒸し米を計量し、杵つきのうすへ移し、つくこと1分30秒~2分。水を1滴も加えずもち米の水分だけでつく。つきあげた餅は、すぐに丸もち製造機へ入れられ、丸い回転板へ、球状の餅がポトンポトンとリズミカルに落ちてくる。それをまた、リズミカルに餅板に並べる人がいて、板を取る人がいて、棚に並べる人がいて、ラインに並んだ9人が各々の持ち場で1定のリズムを刻みながら、滞りなく仕事は流れてゆく。棚が餅で一杯になると冷蔵庫へと運ばれ、そこを抜けるとパック室へ出る。

餅製造室が男の持ち場なら、さしずめ、ここは女の戦場という所か。今年もベテラン陣の手の速さに焦りまくる新人さんが出るのかも。肩こりにはくれぐれもご用心。手詰めの作業は“慣れての業”。素早くきれいに形良く袋詰めができて1人前。1週間後、10日後の彼女らの仕事ぶりに乞うご期待。パックされた餅は金属探知機をかけた後に、シーラーをし、完成。製品はローラーにかけられ、次室の出荷スペースへ。いよいよ出荷の為のダンボール詰め。見落としがないか検品をしながらの箱詰めも最終チェックだけに気が抜けない作業だ。
ひと通りの作業風景を見せてもらって、事務室に戻ると、南向きの部屋は、晩秋の柔らかな日差しを受けて、ストーブもスイッチOFF。組合員が届けたストックの甘い香りが漂っている。
去年までの狭い作業場でひしめき合って働いていた喧騒から抜け出して、この広い場所での餅製造。身の丈に余る借財を背負っての再スタートだけに、人員を切り盛りする慌しさの中に緊張感がみなぎっている。組合員の意気込みに、従業員の頑張りがうまくついてきて、大きな力となりますように、と願わずにはいられない。
小春日和の帰路、晩秋の優しい陽気はそれだけで人の心を幸せにしてくれる。すっかりを雪化粧した鳥海山と月山が揺るぎないその姿で“頑張れ!!”と私達の行く手を応援してくれているように思えた。
前途、順風満帆なれ!!


庄内協同ファ-ムだより 2001年10月 No.79

こんにちは、石垣憲一です

余目町   石垣 憲一

私は5年程前から庄内協同ファームに準組合員として指導を受けたり、圃場見学に参加したり、今年から正組合員になりました。米作りを主にし、ハウス6棟にスットクとトルコギキョウ、減農薬・無袋の桃、5000個の菌床椎茸栽培、ずいき・アスパラ菜など野菜を少々作っています。
 土にまみれて働く両親の背中で育ち、「作物を作らんとすれば根を作れ、根を作らんとすれば土を作れ」と教えられ、長年、土作にこだわって農業をやってきました。特に、昭和の終わり頃に、化学肥料や農薬による土の変化に気づきました。また、我々の作る農産物が多くに人々の健康を左右する事を重く考えるようになり、平成元年から有機肥料・減農薬栽培に転換しました。
自然を相手に有機肥料100%になるまで、沢山の失敗を繰り返しました。長い間、有機栽培の難しさの克服と同時に良い有機肥料を求め、ようやく3年前から、なんとかやれそうな方法と納得のいく肥料を手にする事が出来ました。
農法については、木酢液(木炭を作るときに出る液)の使用に切り換えました。木酢液は薬ではないので、殺虫能力はありませんが、害虫や病気を近付けず、作物の成長を促し、床をよくする働きなど、研究者によって報告されています。農薬のような威力の無い分は、田圃を見回り、草刈、バイド(田圃の中に水路を作る)、水加減の調節など、人手で補い、作物と会話をし、一喜一憂しながら育てています。
 しかし、頑張っても自然の猛威には勝てず、一昨年はカメムシの害をかなり受けてしまいました。それでも沢山の方が、農薬で汚染された米より安心だと喜んで食べてくださいました。そんなお客様たちに助けられ励まされ幸せに涙が流れました。
これからも、よい環境の中で育て、安心して美味しく食べられる作物作りにこだわった農業をやっていこうと思っています。

量より質の楽しい農業を

稲の刈り取りを前に、実行組合の坪刈りが行なわれました。どこの集落でも毎年行なうもので、収量を競う行事です。自分の田圃の中で最もよく出来たところ、ここぞという自慢の場所を指定し、みんなで一坪(3.3㎡)の稲を刈取、収量を競い合うのです。今年も収量では最下位でした。平均収量630kgのところ、我が家は555kgでした。天候に恵まれたけれども、去年と同じでした。でも、籾の手触りは「さらさら」し「ビシッ」として稔り方はよく出来たようです。

私も以前はいつも上位に入賞し、何度も優勝しました。収量では負けまいと頑張り、工夫もし、自慢でもありました。ところが、安全で美味しい米を作ることが大事である事に気付き、栽培方法を変えてからは、優勝も上位入賞にも関係のない話になってしまいました。農薬・化学肥料を使用しない農業を目指すようになってから、農業が楽しくなりました。春、有機肥料を投入し、稲が必要な時だけ吸収し、木酢液で病気や害虫をよせつけないようにし、水のかけ具合で稲の生育を調整するやり方は自分に合っているようです。喜んでくださるお客さんの声はいっそう意欲を膨らませてくれます。

楽しい農業を後継者に

私が農業を始めた頃は、職業として夢も希望ももてる魅力がありました。ところが、米あまり、減反、米価安、輸入作物増大など問題が山積し、農業離れがすごいスピードで進んでいます。多くの若者は、外の産業に職を求めて集落から出て行きます。でも、視野を広げてみれば、食料は不足しているし、経済性や見た目を優先する現在の食料生産など問題だし、農業が担わなければならない大事な役割を考えた時、やりがいのある職業としてやっていける仕事だと思います。「農業のやりがいと楽しさを見いだし、それを後継者に伝えたい」と願って、息子を後継者に育てたいと思っています。
こんな石垣憲一をよろしくお願いいたします。

スケッチ

余目町 富樫裕子

庭の柿の実も色づき、鳥たちがさかんについばんでいます。庄内柿は渋柿のはずなのに、木の上の方はすっかり渋が抜けて、おいしくなっているのでしょうか。昨年の今頃は、舅が毎日腰に籠をぶら下げて柿もぎに精を出し、「裕子。今年のおまえの贈る分はどれくれだ!!」と私の友達の分も作っておいてくれた事を想い出します。今年の5月に、3ヶ月あまりの闘病生活を送った後、突然いった義父。あまりの忙しさにゆっくり悲しんでいる暇なんてなかったけど、私の好物のぶどうの品種もちゃんと覚えていて、食べきれないほど買ってきてくれたり、妙に細かい事まで気がついて、孫である2人の娘達をとてもかわいがってくれました。雪が降ってもう少し心にゆとりが出来たら義父と暮らした25年の月日を想い出したいと思います。

夫の担当の稲の方は、終盤にさしかかり、後は倉の中でお米にするばかり。私の担当のスットクの花は明日が初出荷で、これからが本番です。お互いに手伝いながら、今年もお正月まで忙しい日が続きそうです。


庄内協同ファ-ムだより 2001年9月 発行 No.78

農業に携わって…

余目町   今野 裕之

 今度新しく組合員になった、今野裕之です。稲作を中心に、大豆、野菜を少し作っています。稲は、約3.5ha作っていて、そのうち2.3haが有機栽培(転換期間中)で、残りが除草剤1回のみの減農薬減化学肥料栽培です。
有機は、種子消毒から全て農薬や化学肥料などを使わないので特に育苗段階での失敗が多く、今年も少し失敗しました。

 農業は「自然と共生」しているんです。人間がどうあがいても自然にはかないません。人の考えで、虫が多い時には「あれ」、生育が悪い時には「それ」、生育過剰の時には「これ」といった具合に色々な農薬や化学肥料などを使うのですが、使用直後はそれなりに効いた様に見えても、結局は同じになる様に私の目には見えます。もう少し自然にまかせ、農薬や化学肥料に頼らない農業をみんながしていければなあと思うのです。

 そういう私も農業をやり始めてすぐから有機栽培はしていません。最初は、慣行栽培で農薬も化学肥料も使っていました。私の友達がふとした事から合鴨農法を始めました。田んぼに鴨を放し、虫を食べてもらい、足で土をかき回し草が生えてこないようにする。かわいく、いくら見ていてもあきませんでした。

 「こんなおもしろい農法があったのか、よーし自分もやってみよう」と思いました。実際にやってみると、鴨たちはかわいく、田んぼのいろんな所をつつき虫たちを食べに元気よく泳ぎ回るのでした。しかし、鴨たちは平均的に田んぼの隅をきれいに泳いではくれません。ですから所々草が生えてきます。その時は鴨たちと一緒に田んぼに入って草取りをします。合鴨農法をやり6年目になるのですが、やっと土が出来てきたのかなあと思います。前より有機肥料の量も少なくて済みますし、稲も丈夫に育つ感じがします。

 人は、食べなければ生きていけません。そして、健康に過ごせるように色々な物を食べます。そうして長生きできるのだと思います。「こんなうまいものをもっと食べたい」と皆様から思えるものを、まだまだ未熟な私ですが作っていきたいと思いますので、よろしくお願いします。

スケッチ

三川町  菅原 すみ

9月にしては朝晩肌寒いこの頃、鳥海山は例年より3週間早い初冠雪となり、秋が駆け足で通り過ぎて行くように感じる。
9月11日に始まった稲刈りも、もう少しを残すだけとなった。ザクッザクッ、コンバインが作業し易いように田圃の隅を鎌で手刈りをしている音だ。今年は穂が重い、籾もムチッとしていて稔り具合もいいぞ。
コンバインは30aを50分で刈り終え大きな袋に入った籾がライスセンタ-に運ばれていく。乾燥、調整作業の3日後お米が出来あがった。1年間の米作りが数量と品質に表れる緊張の時。出来たての新米を持って来て食してみる事にする。

水加減は新米も古米も同じ量でいい。昔は稲を自然乾燥にしていたので玄米に含まれる水分が多く、新米を炊く水の量は減らすと言われていたが、現在は機械乾燥で水分は一定に仕上ている。又、米の保管も湿度を一定にして保管しているので新米も古米も同じなのだ。炊飯器がシュ-シュ-音をたて、2人と160羽の合鴨達で頑張った無農薬栽培のひとめぼれが、ごはんとなるクライマックスを迎えようとしている。家中に広がる幸せな匂い。

鴨達は、稲には害虫となるドロオイ虫、イネミズゾウ虫等を食べてくれて、一生懸命に動き回り土をかき混ぜるので草も生えにくかった。8月に入ると日中は暑く、朝晩は涼しい日が多かったのでイモチ病の発生もなく、台風もそれて自然が大きく味方をしてくれた。
8月末、稲穂が頭を垂れ始めるとヒエが稲よりずっと背丈を伸ばし、黒い種をつけ、あっちこちに目立ってくる。鴨達が除草しきれなかった株ヒエだ。

無農薬で稲を栽培するという事は周囲の人に格段の配慮をしなければならない。害虫の発生源になってはいけないし薬剤を使わない分、気を使い時間を使い、圃場を見守り、それなりの手段をこうじなければならない。ヒエのように一目瞭然の雑草だらけにしておくというのは、いかにその圃場の管理が行き届いていないかを示しているようなものだといつも夫と口論になる。
除草剤を使っていないからといってこの黄金色の美しい風景の邪魔はしたくない。ともかく最後の闘いだ。全ての田圃のヒエ取りを終え、稲刈りに臨んだ。

ピ-ピ-、ごはんが炊きあがった合図だ。最後の仕上げ、蒸らしを終え蓋をとる。

プ-ンと甘い新米の香り、ツヤがあり、ごはん粒が立っている。

シャリ切りをする要領で混ぜて仏前に供えるごはんを盛り、我慢出来ずちょっと味見、

「…‥おいしい」。1年の思いと共にのみこんだ。

夕食時、夫は雄弁だった。わかるわかる、安堵と喜びの束の間のひととき。

大禍もなく終えられた今年のお米作り。自然に感謝です


庄内協同ファ-ムだより 2001年8月 発行 No.77

スケッチ

志藤知子 藤島町

 うだるような夏も終盤を迎える8月の今頃。我が家には、毎年、アジアの各地から農業をそれもオーガニックを心ざす青年達が研修にやってくる。栃木県にあるアジア学院の学生として、春から日本に渡ってきた彼らは、片言の日本語で、片言しか英語のできない我が家にショートステイする。

 家の中の間取りの紹介、家族の紹介、そして仕事の手順などは、目で理解できることも多く、さほど不自由を感じないで、何とか意志を通じ合うことができる。多少の単語で何とか頑張ることができる。それでも普段使わない英語は、一度覚えたつもりでも、すぐに頭の中から消えてしまっていて、1つの質問をするのに、つい頭の中で文章を組み立ててからおもむろに話しかけることになるので、沈黙の時間が流れてしまう。

 農業のことに関する専門的な質問などには、こちらもつい手間どってしまって、夫と四苦八苦。手元にあるものを並べて説明しようとしたり、ジェスチャーで補ったり、暑いさなかますます汗が出てしまう有様である。通訳のいない国際交流は、本当に冷や汗ものである。

 それでも、今年インドからやってきたカペさんと、ミャンマーのサイヌーンさんは一生懸命、枝豆の作業を手伝ってくれる。朝は、五時半で”グッド・モーニング”と元気よく前晩の打ち合わせ通りに起きてきてくれるし、ひと通り仕事を説明すれば、自分のポジションにこだわらず、次々と滞っている部分に手を貸してくれる。言葉は、すっきりと通じなくても、彼らの実直さは見てとれる。

 カペさんの作業帽は、麦わら帽子、サイヌーンさんは、一枚の布をかぶる。アラハトさんのスタイルに似ていますね。といったら、にっこり笑った。タイに近い地方は、皆、こういうふうにかぶるのだと教えてくれた。

 二人とも既婚で、国に残してきた家族の写真を大事そうに抱えている。日本に比べれば、まだまだ貧しい自分の国の、これからの農業を模索し、少しでも、日本の技術を持ち帰ろうとする彼らの意欲には、毎年のことながら感心させられる。

 言葉が通じたら、もっともっと楽しい時間をすごせたのに、というカペさんの言葉通り、言葉の違うもどかしさはあったものの、通訳を頼らずにお互いを理解しようとした時間も又、私達にとっては貴重な体験でもあったような気がする。

 でも、せっかくのホームスティ。聞きたいことがたくさんあって今夜は、通訳さんがやってくる。きのうと、きょう、我が家で仕事をして一緒に食事をして、さぁ、今晩はどんな質問が飛びかうやら。・・・・その前に、夕食は何にしようかとお昼休みの今、これを書きながら考えている。


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