夢はまだ一次発酵
夢はまだ一次発酵
「あんた、この家の何が不満だなだ!」夜もふけた茶の間の隅で、怒り口調の母が言った。後継ぎという運命、自分の将来、好きな人のこと、結婚の障害、考えても悩んでも答えの見つからない問題に、頭の中がパンクしてしまいそうだった。「何もかも不満だっ!」そう叫んだと同時に、太陽が沈むのと一緒に就寝している祖父が、安眠を妨害されて、プリプリ怒って部屋から出てきた。「お前だぢうるさぐで、寝らんねー!」その言葉で、私の頭はプツンと切れた。「こんな家、出てってやるー!!」まだ肌寒い4月の夜空の下、勢いだけで私は家を飛び出していた。大学3年生、私は二十歳になったばかりだった。まさか、この自分が家出してしまうとは。我ながら動揺してしまった。思いの他、外は寒く、こんなことなら上着と財布くらいは用意しとくんだったと、すぐに後悔したが、出たからには後には引けない。とりあえず、近所のコンビニまでいこう。「実は家出をしてしまって…」訳を話して、店長に20円を借り、高校時代から付き合っていた彼氏に電話をして、迎えを頼んだ。彼が迎えに着いた頃には、もう日付が変わっていた。「ノリが思ってることきちんと話して、話合ったほうがいいよ、家まで送っていくから」彼氏にそう言われ、渋々家に帰ることにした。
家族会議酵
家では、重苦しい雰囲気の中、両親と私とで家族会議が開かれた。「二十歳にもなってこんな子供みたいなことをして」と父がしきりに言っていた。何が不満なのか言ってみろといわれ、確かに不満は山ほどあるのだけれど、最近感じ始めた自分の中の息が詰まるような苦しさの根源は何なのだろうと、その時になって改めて考えてみたのだった。
山形県の米どころ、庄内平野の稲作専業農家に二人姉妹の長女として生まれ、幼い頃から後継ぎを期待されて育った。「あたし、農家を継ぐよ」そう言いさえすれば、家族が安心することを子供心にわかっていた。「女の子なのにえらいね」いつもそう誉められた。高校までは自分自身それに満足していたのだ。それが、大学3年となり、周囲の友達が見なれないスーツ姿で就職活動をするようになって、自分には関係のないことなのに、気持ちばかり焦るようになっていた。私には始めから、農業という職業の選択肢しかなかった。それがあたりまえだと思ってきたけれど、本当にそれは自分の意思で決めたことなのか?家の期待に添うように選んできただけではないのだろうか?農業はする、でもいったいどんな農業を自分はしたいのだろうと正面から考えだしたのは初めての事だった。
稲作とは違う自分らしい農業を見つけようと、手当たり次第本を読んだ。先生に相談してみた。とにかく今目指す目標がほしかった。しかし、焦る気持ちが強すぎてうつ病のような状態に陥ってしまっていた。息苦しさの原因はもうひとつあった。彼氏のことだ。高校時代からの付き合いで、いずれは結婚したいとぼんやりと考え始めていた。母にそのことを言うと「彼がすごくいい子なのはわかるけれど、一人っ子じゃ家に婿にはこられないんだから諦めなさい」と言われた。「じゃあ、あたしの人生は好きな人とも結婚できないようなものなの?」憤慨する私に、心底気の毒という顔で「可愛そうに…」と母は言った。可愛そうに…そうかたずけられてしまったことに、怒りよりもむなしさが先に立った。私の力では抗えない江戸時代から続く農家、『富樫家』が壁のように立ち塞がっているのだった。
「いい子」卒業
「俺がいつおまえに農業を押し付けたんだ」声を荒げた父が言った。すると、母が「父さんやっぱり押し付けてるよ、何も言わなくても感じるんだよ」と言い、父はしばらく黙っていた。そして、「おまえはどうしてそういい子でいようとするんだ」と言った。それを聞いたら、なんだかもう悲しくて、今まで自分が頑張ったり悩んだりしてきたことは何だったのだろうと虚しく思えてきた。親に対する怒りのような想いが溢れてきたが、冷静になって考えてみた時、なぜ自分はこんなにも期待に応える「いい子」でいなければと、無意識の中で思っていたのだろう、という疑問も感じた。そして、その答えとして、それは、自分に対する自信の無さだった気がするのだ。自分の考えたことが、たとえはったりだとしても、親のいうことよりも正しいということのできる自信が自分にはなかったから、だから、「いい子」でいることにとりあえず逃げていたのかなあと。それに、他にやりたいことがあったら、もっと早くに農業やらない、お嫁に行くと言えたはずなのだ。それが出来ずに悩んだりしたのは、やっぱり自分の中に農業が好きで、父と母のようにケンカしたり笑いあったりしながら好きな人と一緒に農業をしてみたいという想いがあったからなんだろうなと気が付いた。親を裏切るとかそういうことではなくて、自分自身の思いが、親に対しても譲れなくなってくる。それは当然のことなんだ、たぶんこれが、成長するということなのかなあと思った。自分の人生の責任を誰かのせいには絶対したくないから、だからこそ、できることなら、自分のやりたいような農業、生き方をしていきたいなあと思うのだ。
この一件のおかげで、今まで心の中に引っかかっていたものがとれて、「私の人生は私自身のものなんだ」と言いきれるようになったら、かなり気持ちはスッキリした。父は次の日カゼをひいて、2,3日寝込んでいたが、寝込んだ理由はカゼのせいだけじゃないらしいよ。と母は私に笑いながら言っていた。今思えば、家出もしてみるもんだと思う。こんなことがなければ、お互いを理解することも無かっただろうし、自分自身の気持ちや変化に気が付かないでいたかもしれない。
長野に行こう!
家出事件以来、少しずつ家を継ぐということではなく、自分がやりたい農業とは何かを、
考え始めるようになった。家は稲作を中心とした専業農家だったが、実を言うと米にはあまり興味が持てなかった。輸入米がどんどんと国内に入ってくるし、減反や青田刈りが相変わらず行われている。この現状に追い討ちをかけるように、米の価格は下がり、米の消費量自体が減少していた。米どころ庄内平野でありながら、米に見切りをつけて、花卉に力を入れる農家が我が家の周りでも目立つようになってきていた。米だけに執着していてはだめだ、何か違う新しいことをやらなくては!そして思いついたのが、ラズベリーを栽培することだった。まだ日本では栽培事例が少なく、デザートなどへの需要も伸びていきそうだった。ラズベリーのことを勉強してみたい。本で調べると、涼しいところを好むラズベリーは信州で少し栽培されていた。長野に行こう!八ヶ岳にある中央農業実践大学校へ行って、ラズベリーと花の実習をやってみよう!
入学式は全員白がまぶしいつなぎを着用とのことだった。つくづく、スーツには縁が無いなあと思ったが、実践を重んじるこの学校の精神を感じるにはふさわしい伝統のような気もした。しかしながら、学校に果樹のプロジェクトは無く、ラズベリーを知る人も少なかった。学校は、私ひとりの為に担当の先生をつけて下さり、週に2回学校を出て、ラズベリー園をはじめ、りんご園、ブルーべリー園などの農家に実習へ行くことを許可してくれた。幸運なことに、学校と同じ原村に日本でも数少ないラズベリー専門の農園があり、一緒に作業を手伝わせていてだく機会を得た。農場主のおじさんはもともと農家ではなかった。違う仕事をしていたが、若い頃アメリカに農業研修に行った時に食べたラズベリーの味が忘れられず、定年を過ぎ夢をかなえるべくラズベリー農園を作ったのだと言う。整然と整備された園内を見ていると、自分はいつになったらここまで追いつけるんだろうと焦ってしまうと告げると、おじさんは「そんなに焦ってはいけないよ。たくさん経験してたくさん失敗してやっとわかることばかりなんだから。おじさんだって、もう10年近くここをやっているけれど、どんな肥料をやるか、いつ頃剪定してみるか、わからないことばかり、毎年挑戦しているんだ。だから、農業は面白いのだけどね」といって笑った。挑戦し続けるおじさんは、不思議と歳を感じなかった。おじさんの紹介で、ラズベリーをはじめとする、有機や無農薬などこだわりの果物でジャムだけをつくる、『ジャム工房とりはた』に山梨まで訪ねていった。訪ねた日はちょうどブルーベリーのジャムを作る日で、甘酸っぱい香りが部屋中にたちこめていた。ひとつひとつ手作業でビン詰めするのを手伝いながら話を聞いた。「数え切れないほど失敗したよ。こうすればもっとおいしいよなんてお客さんに教えてもらったこともたくさんあるし。十年経って、ようやくスタートラインに立てたかなあという気がするよ」独学でジャムづくりを学び、材料は自分が納得いくものを探し歩き、旬のものしか作らない。水や添加物を一切使わないその味は、こくがあって優しく、なんだか懐かしい味だった。
ラズベリー園のおじさんもジャム工房のおじさんも、道なき道を切り開いてきた人たちだ。失敗を恐れてはいけない、失敗こそ先生。大切なことは夢を諦めない情熱をもつことなんだ。そう、二人に教えられたような気がした。
11月になると、私達研究科は4ヶ月間の農家研修に出る。私は群馬のワイルドフラワーを栽培する農家と埼玉の観光農園に研修が決まった。花と観光、どちらも華やかで憧れる農業だ。研修中にできるだけ多くを学び取り、自分の実家でもやってみたい。そう心に決めて臨んだ農家研修だったが、研修を終えて思ったことは、意外にも「同じようにはできない」という思いだった。適地適作、農業はその土地の気候、風土、立地条件それらを克服しうまく利用してこそ成り立つもの。外ばかり追いかけていたけれど、私はもっと地元を知らなくてはならない。見飽きたはずの田園風景が、稲作には恵まれたみのりはぐくむ豊かな環境として思い出された。
研修を終えて学校に戻ると、今度は卒論の執筆が待っていた。テーマがなかなか決まらず、苦し紛れに現代農業で見つけた「米パン」についてとりあげた。ラズベリーをジャムにして、パンとセットにして売ったらいいかなという安直な考えで、米をどうにかしようと考えたわけではなかった。ところが、調べてみるとこれがなかなか面白い。働く女性や単身生活者の増加で、手をかけずに食べられる米パンの利用される可能性はますます高まってきている。そればかりか、米の消費拡大や国内自給率の向上、減反地・耕作放棄地の水田利用、水田の持つ多面的機能の維持、学校給食への供給を通した農業教育など、今米を取り巻いているマイナス要因を一気に覆し、余りあるほどのパワーを持っている。それに、有機野菜を作ってサンドイッチにもできるし、雑穀や果樹を利用して雑穀パンや手作りジャムパンなどもつくれる。パン屋の店内でお米や野菜を売ったっていいじゃないか。米パンのお陰でなんて楽しい「農的生活」が出来るんだろう!ほわーん、夢いっぱいだ。でもこの膨らんだ夢は一次発酵(パンづくり的に言うと)にすぎない。この夢を現実のものとするか、夢で終わらせるかは、その後の自分の行動力にかかっている。お米はだめだと思って遠回りしてきたけれど、結局はお米に戻ってきた自分がなんだか不思議な気がする。
農家一年生
今年の4月から、私は実家に戻り、農家1年目のスタートを切った。就農早々、5月に祖父が亡くなった。私に最もプレッシャーをかけ、そして、私が就農することを最も待ち望んでいたのが祖父だった。仕事と病院の往復でとても忙しい日々だったが、自分のいることで少なからず家族を助けていると実感できたことは私にとってはうれしいことだった。気が付いていなかったけれど、自分はこの家に、この家族に守られて育ってきたのだ。そして、これからは、自分が家族を守り支えていく立場なのだと感じた。だんだんと意識が朦朧としていくなかで、祖父は枕もとに私を呼び、はっきりとこう言った。「紀子、夢を持で。夢を持たなくなったら農業はつぶれる」と。祖父は私に、最期の最後に一番大切なことを教えてくれた。すごくおおきな何かを私はその時、引き継いだような気がした。
農業で生活を支えていくということは、簡単なことではない。農産物の価格は決して高いとは言えないし、市場や天候に常に左右され、輸入農産物にも押され気味だ。どんな時代でも、農業はいつも厳しい状況にあったのだけれど、そんな中で、曽祖父は田んぼの開拓に、祖父は酪農と稲作の複合経営に、そして父たちは餅加工品などを産直する農事組合法人に夢を託してきたのだ。
私がしてきたことはまだ何もない。ラズベリー園をつくることも米パンをつくることもまだ私の夢でしかない。でも、全ての仕事の始まりは夢をもつことからはじまるのではないだろうか。強力なサポーターもできた。私が家出をした時に、夜中にもかかわらず迎えにきてくれた、あの彼と来年結婚することになった。「のりの夢を一緒に叶えたい」そう言ってくれた。以前は反対していた両親も今は祝福してくれている。
見渡す限り黄金色となった田んぼが風に揺れている。農業へ夢を託し、受け継がれてきたバトンを握り、私は今スタートを切ったばかりだ。