いま新たなスタートラインに立っている
4月中旬頃鶴岡公園の桜の開花も一気に進み、葉桜になってしまった夜、花見を兼ねた「ミ ニゼミ」が開かれた。
テーマは「環境問題の解決に果たす市民運動の役割」(水俣病の問題を 中心として)」というタイトルで、現在岩手大学大学院連合農学研究科の学生から発表しても らった。アグリフォーラム鶴岡の会員、山形大学農学部の先生と学生、団体職員あわせて2 0名の参加者で行われた。
食べ物を食べる人がいる限り農家は必要とされるんだという前提が今崩れようとしている。中国では、日本にいて想像も出来ないほどの規模の野菜が日本向けに作付けされているというし、韓国からも有機農産物の輸出の準備が着々と進んでいるという。遅かれ早かれ数年後には日本に輸入野菜が溢れる事になる。
日本農民が、かつて味わった事のない大きな変化が待ち受けている。 日本の経済はいまだに回復せずにいるし、まだ何年も回復できないだろうという人もいる。しかしそのほとんどの原因に絡んでいるのは日本人自身なのだ。 ユニクロが輸入農産物、輸入食品の販売に手を出すそうだ。農産物の開発輸入は商社の仕事だし、経済自体をここまで疲弊させたのも日本人自身がやったことだ。
自分で首を絞めてきたのだ。出口なんかあるわけがないし、とうとうここまで来てしまった。農家は農家でどうしたら生き残れるか必死で考えなければならなくなっている。
そんな中、全国津々浦々で直売所が元気だ。そこに集まる農家の顔は活気に満ちている。そこには3つの理由があるようだ。新鮮で、安く、顔が見える関係。この3つ、これは究極のセールスポイントなのだ。まさに庄内協同ファームが目指した当初の産直の理念がそこにはあるようだ。そこにもう1つ安心安全のキーワードを付け加えていこうとするのが庄内協同ファームの今の方向であり、ますます元気の出る産直提携を目指していこうと思っている。
そこで生協や宅配システムなどの流通にただ頼るのではなく積極的に商品を魅力あるものにする努力をするべきなのだと思い、認証取得に向かい組合員の努力により有機認証を取る事もできたし、有機栽培に向かっての技術はいまだに脆弱な段階でしかないけれども、ほんの少しの進展があった。まさにここに道は示されているのだと思う。 もっとも困難な道に見えるが、時代とともに食べ物に求められる価値は変わる。農家としては楽しい話ではないがその求められる価値がどんなに変わろうともその素材の価値を生み出せるのは農家以外にないのだ。流通でも国でもない。 自分たちの新しい工場がいま目の前にある。どうしようが自分たちの思うがままだ。
全て自分たちの責任の中にある。しかし自分たちだけで何かができるわけではない。庄内協同ファームは、いかに地域の人たちを巻き込んでいけるかにかかってくると今更ながら考えている。地元の農協も町も一緒になって庄内協同ファームと消費者を含んで、ここ庄内の地域をおこがましくも何とか楽しいものにしたいと微力を持ってスタートラインに着いている。これからもより一層の産直提携をお願いします。
農業初心者、三年目にして思う事
今年4月から、ついにというべきか、とうとうというべきか、我が家に就農することになりました。4年間の大学生活を北海道で過ごし、農業の勉強と称して、長野の八ヶ岳にある農業の学校でも1年間過ごさせてもらいました。 この5年間で農業技術を習得出来たかというと、答えは限りなくNoに近く、サークル活動や趣味、友達づくりに励み、どちらかといえば、就農までのモラトリアムのような存在でした。
でも、この一見我が家の農業経営にはなんら関係なさそうな時間のなかで、私はたくさんの農業に夢を持った人たちに出会い、様々な考え方を知り、後を継がなくてはならないという、狭く重荷であった農業という存在が、無限の可能性が広がっている世界だったのだとあらためて感じることが出来ました。家を継がなければならず、自分に職業選択の自由がないことが、いやでいやでたまらなかったけれど、非農家で農業を目指している友達に、「のりちゃんは土地もハウスも機械もみんな揃っていて、うらやましいなあ」といわれ、農業をやりたい人間が農家の生まれということは、実はすごくラッキーなことでは!?と思えたことは、かなり目からウロコでした。
だから、遊んでばっかりいたことも一応役には立ってるんだと思うよ、父さん。(いいわけ) 完全なる田園生活を始めて、まだ数ヶ月ですが、全然悪くないなあと今は思っているところです。蛙やイモリを捕まえたり、ヨモギを摘んでだんごをつくったり、畦道に生える桑の実を集めたり、カラスに植えたばかりの苗が引っこ抜かれたといってはくやしがったり、晴れた日には田んぼを渡る風に吹かれ、流れていく雲を眺めたり、そんな農業のもつ時間の流れや、自然の変化が優しくて、面白くて、楽しいです。
今年、5月に祖父が亡くなりました。私に最もプレッシャーをかけ、そして、私が就農することを最も待ち望んでいたのが祖父でした。祖父が倒れた時には、もう手遅れなほどにガンがひろがり、日ごとに悪化していくのがわかりました。痛み止めのモルヒネの量がどんどん多くなり、だんだんと意識が朦朧としていくなかで、祖父は枕もとに私を呼び、はっきりとこう言いました。「紀子、夢を持で。夢を持たなくなったら農業はつぶれる」と。祖父は私に、最期の最後に一番大切なことを教えてくれました。農業で生活を支えていくということは、簡単なことではないです。農産物の価格は決して高いとは言えないし、市場や天候に常に左右され、輸入農産物にも押され気味です。どんな時代でも、農業はいつも厳しい状況にあったんだけれど、そんな中で、曽祖父は田んぼの開拓に、祖父は酪農に、そして、父たちはこの庄内協同ファームという加工、産直組織に夢を託してきたんだと思います。
さて、私はこれからどんな夢に向かっていこうかなあ。今、ぼんやりと考えているのは、観光農園です。農作物と作っている人と田舎の自然を一緒に味わえるような、自分や自分の周りの人たち、地域の人、都会の人、みんながゆったりと雲を眺め、風に吹かれ、幸せな気持ちになって帰っていけるような、そんな場所を創りたいです。ウ~ン頑張るぞー とりあえず、明日から早起きすることからはじめます。ハイ。
農業初心者、三年目にして思う事
早いもので就農して三年目に突入してしまいました。本当に周りの人たちに助けられっぱなしの二年間でした。就農当初はまったく何もわからず頭だけで物事を考えていて脳みそがパンクしていましたが、最近では何となく流れがつかめてきて頭を使わない日々が続いています。 このままではボケるかもと思うのですが、逆に頭を使わないでいると様々なものが直接心に入ってくるような気もします。
やわらかな土の香り、畦に咲く色とりどりの花々、暖かい陽光・・・。 夕暮れ時は、しばしの間仕事の手を休めて空を仰ぐ幸せタイム。こんなことばかりしていると、田んぼではヒエがグングン育ち、畑では虫たちがバリバリとブロッコリーの葉っぱを食べていたりしていて、それでまた仕事に追われてしまうのですが、それもしょうがありません。 農業技術についても周りの人達に教えてもらう事が多いです。肥料のやり方ひとつにしても一塊で施したり全面に散布したり、施す時期や肥料の種類などなど様々なことが絡み合ってその作物に一番合うやり方ができていて、実験と失敗を繰り返し道筋を作ってきた先輩農家達の努力に『こりゃー凄いなー』と感服するばかりです。
自分も作物を観察してどの肥料をどれだけほしがっているのかわかるように、作物と話せる農家になりたいものです。 ところで、就農するとき一つ自分で決めたことがあったのですが、最近それを忘れがちになってしまいました。それは、『金を稼ぐためだけの農業はしない』ということだったのですが、お金大好きの私としては私欲物欲に走ってしまいやすいので、野菜が金に見えてきがちでした。当然お金は必要だし大切なものであることはわかっています。しかし、その先で何が出来るかということを常に考えていたいし、少しでも実行に移すようにしていこうと思っています。
この前、幼稚園の園児たちが我が家の田んぼで田植えをしました。泥の中に素足を突っ込んだ園児たちはキャッキャッと楽しそうにはしゃいでいて野生のサルのようでした。見ている自分も楽しくなって、教える側だったはずが教えることなど何も出来ずに逆に多くのことを教えられた気がしました。 何年先になるかわかりませんが、将来は農業の喜びを分かち合える仲間たちと農業共同体のようなものを作ってみたいと思っています。農業と日々の暮らしがそのままで芸術であるような、自給自足をしながらも外に向かって大きく開いているような、そんな共同体が夢です。
6年目に入って…
2001年6月、庄内協同ファ-ムが引っ越して間もなくした頃、いつも通り昼休みをしていたら従業員の人に「司君今年で6年目だのー」と言われ、そうかもう5年も経ったのかーと思ったのと同時に、今までの事、そしてこれからの事を考えていた。 高校を卒業と同時に庄内協同ファームに勤めて今年の4月で6年目に入った。高校の授業の中でパソコンの授業が多く、また農業高校だった為、農業の授業もすること があり、高校3年の就職活動では、この2つの勉強が生かせる仕事がないかと探していました。
そんな中ちょうど庄内協同ファームを知り、受験したところ採用され現在にいたっています。 仕事の内容としては、県外との取引を多くしている為、荷造りをして宅急便で送る発送作業や規格書などを作成する営業的な仕事を主にしていますが、今の時期人手が少ない為、時には製造に入る事もあります。
庄内協同ファームの取引先は遠い為、なかなか消費者の方々とあまり交流する機会が少ないのですが、数年前、東京の生協さんに1週間、名古屋の生協さんに1週間と研修に行く機会があり、その研修の中で配送員の方と一緒に、配送の車に乗って実際に消費者の方々に商品を届けるという経験をする事ができました。その時1人の消費者の方と話ができ、話をしたところ「商品が届くのをすごく楽しみにしているのよー」と笑顔で答えてくれました。
思い出すと庄内協同ファームに入った時、組合員の人達からよく聞かされたのが「顔の見える関係をずっと作ってきたし、これからも作っていきたいなやのー」と言われ最初は何を言っているのかわからなかったけれど、その時初めて、組合員の人達に聞かされた話の内容が理解出来たのと同時に、大切なことだと思いました。今でもその消費者の方との会話をはっきり想い出す事が出来ます。
庄内協同ファームは、餅の加工が中心なので年末にはたくさんの従業員の人達が働きにきます。中には12月だけしかこない人もいます。そうした人たちとは今までは、その時だけの付き合いや、話をしたことのない従業員の人がほとんどでした。しかし、これからはそういう人達といろいろな話をして、いい関係を作りたいです。また従業員だけといい関係を作るのではなく、原料を作っている生産者の人とも、もっともっと話をして関係を今より深めていきたいです。
そして庄内協同ファームの中でもいい関係を作り、その仲間たちと共に協力して消費者の方々に安全でおいしい農産物、加工品を届けたいと思います。 6年目に入り責任ある仕事も増え、新しい仕事に気をとられ日々の仕事が雑になりそうな時もありますが、そんな時はあの消費者の方の「商品が届くのをすごく楽しみにしているのよー」と言ってくれたあの笑顔を想い出し、これからも荷造りや、規格書の作成、もちの製造を続けていきたいです。
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夢を持ちたい
小さい頃、私は農業が嫌いだった。中学くらいまで農業の手伝いをしていたが、休みの日など友達が遊んでいるときに限って手伝わされたのが嫌で、大人になったら絶対農業はやらないと決め込んでいた。当然のことながら、進路は農業ではないものを選んだ。私が選んだのは水産業。何故それを選んだのかは割愛させてもらうが、私は故郷を離れ、鹿児島で真珠養殖をやっていた。しかし、そこの会社が倒産して、私は故郷へ帰ることとなった。
故郷に帰ってきて10ヶ月ほどぶらぶらしていた。仕事もそれほど真剣には探してはいなかった。ある日職安に行ったら、庄内協同ファームの採用案内があった。自分の家の近くにそんなところがあるとは思いもしなかった。なんとなく気にはなったが、もっと条件のいい仕事があるだろうと思って決断までは至らなかった。そうこうしているうちに、実家での肩身も狭くなって、働かない事にはどうにもならなくなった。職安に行って相談してみると庄内協同ファームを紹介された。私はそこを受けてみようと思い、そして採用された。 なぜ嫌いな農業にかかわる仕事をしようとしたか。それは農業に関わるのが運命なのではないかと思うようになったからだ。
私は夢を持っていない。農業が嫌いで選んだ水産業ももうする気はなかった。夢を持っていないと仕事を探そうとしても何を探せばいいのかわからなくなる。となると、自分が今まで生きてきた中で関わってきたものから探すしかなくなる。私の家は農家なので、農業に関わる仕事をすれば、何か道が開け、新たな夢も見つかるのではないかと思ったのだ。農業の知識は、農家ではない人よりは少し分かる程度でお世辞にもあるとはいえないが、今から勉強すればなんとかなるだろうと腹をくくったのだ。
私の庄内協同ファームでの仕事は、ファーム内での製造を円滑に進められるように段取りをする事だ。しかし、実際は私の力不足で円滑には進められていない。だからいつもドタバタしてしまう。最近は仕事に追われて自分で何をやっているのかわからないときもあるのだが、何とか頑張っている。 組合員の中の息子に私の高校時代の後輩がいるのだが、彼は農業をやっていて農業が面白いという。自分と同じ世代で農業が面白いという人に今まで会ったことがなかったからかもしれないが、私は彼を羨ましく思った。この庄内協同ファームには他にも農業に夢を持っている人がたくさんいる。私はここでの仕事を通して自分にも農業の夢が芽生えればいいと思っている。
スケッチ ~120羽の必殺仕事人~
6月に入って一段と緑が濃くなった。田植えが終わって1ヶ月あまり、成長した稲の苗は草丈が30センチをこしただろうか、株間に見えていた水面も葉に覆われ一面の青田に変わっている。さて、今年5年前一度挑戦して失敗に終わった合鴨農法に取り組んでいる。ひとつはこの農法が有機米作りでは一番定着していることと、完璧に害虫を食べてくれるというメリットがあることだ。
年々増えてきているイネミヅゾウムシに頭を抱えていた夫は、「除草は私も手伝うから」という言葉に決心したようだった。 5月26日九州で生まれてすぐ、舟形まで空輸され第一農場で育てられたかわいい14日雛が我が家に着いた。雛が小さかったので早速ビニールハウスの中に部屋を作り餌付けと外気温に馴らすことにした。5日ほどそこで過ごした合鴨を網とてぐすを張り巡らした圃場に連れて行き放した。
ところが合鴨は水鳥なのに溺れてしまい、体から油が出ず毛づくろい出来ず弱って瀕死の状態の物がでて大騒ぎ。その鴨たちを圃場から引き揚げタオルで体を拭き、毛布に包んで温めること3時間。 すっかり元気になり、用意した桶の中で早速水泳ぎの練習を始める鴨もいて、その様子を見ていた夫も私もまるで親にでもなったつもりでついつい時間を忘れて見入ってしまうほど。 2,3日するとすっかり泳ぎもマスターした合鴨を再び圃場に連れて行き一羽一羽に「しっかり仕事をするんだよ」と言い聞かせて放すと、すぐ前の群れの中に入って行った。でも圃場では空からの外敵カラス、トンビに狙われ20羽ぐらいは餌食になってしまった。
なかなか外敵を現行犯逮捕も出来ず、見せしめのためにクローンカラスを吊り下げたり、てぐすを細かく張ったりしたものの、かわいそうなことをしたと思う。
私はこの農法で期待したことが2つある。害虫を食べてくれることと草取りをしてくれること。1つ目は完璧だったが2つ目の除草は私の考えが甘かったことがすぐ結果となって出てしまった。外敵に狙らわれ怖い目をした合鴨は群れを成してしまい、なかなか分散しないためヒエがみるみる大きくなり、彼らの手に負えなくなってしまった。最初に放す時「あなたがちゃんと言い聞かせて放さないから仕事怠慢でダメだ」と夫に文句は言ったものの、このまま見過ごすわけにも行かず、意を決して田んぼの中でマージャンをすることにした。
(庄内では田の中を這うという)草取りのため片道(距離として60メートル)1時間半の腰を曲げての除草作業は腰から火が出るくらい(庄内では、ものすごく痛いことを言う)辛い仕事である。
彼らも草のあるところは泳ぎ悪いとみえて、私が草取りをした後をガアガア(これは私に対してお疲れさんと言っているように)鳴きながらついてくる様子は可愛いけれど「しっかり仕事してよ」ついつい独り言をいってしまう。とにかく 草取りももう少し。これを教訓に来年はしっかり合鴨を調教し、除草の仕事は彼らをメインに私達がお手伝いというようになればいいなと思っている。7月に入るとそろそろ梅雨も明け、本格的な夏の到来である。春から好天に恵まれ農作物も順調に育ちまずまずの収量が望めそうだ。 より安全で、よりおいしい物を追求していく庄内協同ファームの新たな出発の年でもある。
・・・・・・・竣工記念メッセ-ジ
庄内協同ファームが藤島町にやってきた
これは私にとって、気楽な脇役から一転して主役に抜擢されたような気分である。 これからは何かにつけ、藤島町か?ファームとの接点になる、そう思うと藤島住民の私としては何か身の引きしまる思いがしてしまう。今年は我が家の三人の息子たちの新たな出発の年でもあった。私たちもそれに負けじと新しいスタートラインに立って子供たちへのエールよりも、さらに大きなエールを自分自身に送りつつ、この新拠点から大きく羽ばたきたい。
藤島町のみなさん、どうぞよろしく!!
楽しくおもしろくワイワイと
先日息子の友人が援農にやって来た。東京生まれの百姓志願だという。最近時々そういう若者に出くわす。ともすれば元気を失いがちな現場で、そんな新鮮なハートでひたすらな思いを語られると、もう君の瞳に完敗。
がむしゃらにこれまで私も頑張ってきたけれど、忘れていた百姓が元気な頃に戻ったようで何ともいえない良い気分になった。土を耕す現場では証書や肩書きよりもアイデアと前向きな姿勢が一番だ。我々が食べ物を作る。食べ物は人を作り、人が文化を創ってきた。いわば百姓は、ほとんど表にでることはないが、実は社会の末端までを動かしている血液みたいなもので生きる為には、絶対に必要なものだ。
百姓に多様な価値観を持った若者が多くなってきたことは実に嬉しいことだ。外圧が強く、揺れている今だからこそ内圧を高めるべく個々のエネルギーを高めこの若者達を失望させないよう温かく見守ってやりたいものだ。
楽しくおもしろくワイワイとやりましょう。 日本の未来も捨てたもんじゃないかも?
いくら無農薬の米作り、とはいえ
我が家の労力を考えると合鴨農法はムリ。そんな我が家でも出来そうな紙マルチ農法に今年は挑戦した。三反歩の田植えに4時間ほどかかったが、除草の効果は期待できそうだ。あれから一月ほど経ち、緑が一層濃くなった田んぼを眺めながら、今日私は、地元の小学校の一日先生。 担当は美術(図工)。絵を教えるというよりは、絵を描く楽しさを教えられたらと思っている。目を輝かせ、出来上った作品に歓声を上げる子供達に愛しさを感じながら軽トラでの帰り道、緑の田んぼに庄内協同ファームの新しいスタートを思う。
私達の宝物
2月の吹雪く季節になると、6~7人のメンバ-は公民館に集まり、就農と同時に減反政策でリストラに遭った自分達のこれから生きていく道を探る合宿を重ねていた。私はいつも賄婦。悶々としているメンバ-のひとときの気分転換になっていただろうか。
あれから26年。身の丈に余る新拠点の竣工式を迎えようとしている。お祝いに駆けつけて下さる方々に食べて頂くごちそうを考え、賄の準備をしている傍らには一緒に歩んできた仲間達がいる。 そして、振り向けば親の背中をみつめている庄内協同ファ-ムの子供達。ファ-ムの若い職員達と共にキラリと輝く真珠のように育った。
私達の自慢する宝物、後継者達。親と同じ道を歩んでいたり、それぞれが選んだ道に進んでいたりしながらも何らかの形でファ-ムに関わっている。
さあ、みんなでもうひと頑張りしよう。いぶし銀のシルバ-を目指して。
何にも勝る『裕子ブランド』
今、トップブランド『エルメス』の銀座店がオープンしたそうで、1個何十万もしそうなバッグや靴を買う人で長い行列ができているとか。 我が家のトップブランドの野菜たちも、家の裏の畑で、春先から、ほうれん草、春菊、小松菜、チンゲン菜、いちご、などが終わりに近づき、今は白菜、キャベツ、さやいんげん、大根、きゅうり、が採れ始め、もうすぐナスやトマト、みょうがが食べ頃になります。今年から新顔のにがうりも盛夏の頃には食卓に上り始めるでしょう。 自分で種を播き、毎日成長を楽しみながら、手をかけ、やがて収穫をし、食卓にのせる。それがとても嬉しくて、何にも勝る『裕子ブランド』です。