庄内協同ファームだより

トップページ > 庄内協同ファームだより > 庄内協同ファ-ムだより  1999年1月 発行 No.50

自分の作ったコメは自分で食べたい、
売りたいという農家の特権を守るために。

菅原孝明 三川町 1999.1.20日

 例年にない雪の多い新年を迎えております。私達の農産物を食べて下さる皆様、今年もよろしくお願いします。

 1月1日欧州単一「ユ-ロ」が誕生したが、ある新聞に欧州内の農産物自由化と為替変動を直接に影響をうけた農産物価格が1/2に下落した国もあり、直接所得保障制度はあるものの規模拡大した農家には負債だけが残り、経営計画もたたずに途方にくれているという記事が載っていた。
 私達が目指してきたものは、ただ単にスケ-ルメリットを求めた規模拡大路線や生産された農産物の原料出荷だけではなく、労働コストが価格に正当に生かせる加工品として、又、安全性とおいしさと生産者のいろいろの思いを農産物にこめて、食べて下さる人に直接送り届ける「確かさ、正しさ」を再認識したしだいです。
 一定の関税化率を定めたコメの全面自由化有機農産物の基準認証問題も裏をかえせば自由化の条件整備と言えますし、まさに農産物すべてが輸入自由化の嵐の中に入ってしまったようです。しかし、その中で別の流れを作るべくしぶとく農家として生き残ってゆく覚悟です。
今年、庄内協同ファ-ムとは別に集落の仲間と共同でミニライスセンタ-を作る予定です。自己所有の乾燥機、もみすり機が古くなったためと集落に隣接して、住宅団地が造成され新しい住民からの粉塵、騒音の苦情が予想されるからです。
 農家同士なら、お互い様なのであまり問題にはなりませんが、いろいろな職業の人が増え、農家の人が少なくなったからです。
ふしぎなもので農業を離れてしまえば粉塵、騒音が気になってくるようで、直接苦情が出ないうちに、自主的に住宅地から離れた所に共同で新築することになりました。
 先住民の思いやりとでも言いましょうか、人が良すぎると言いましょうか。
 一般のライスセンタ-は、生産者のコメが混じってしまいますが、このミニライスセンタ-は、刈り取ってきた籾を個別に乾燥調整する自己完結型です。
 生産者それぞれコメの栽培方法が異なるために、自分の作ったコメは自分で食べたい、売りたいという農家の特権を守るために個別に管理することにしました。生産者が特定されたコメは協同ファ-ムの精米センタ-で精米され供給されます。
 建設目標は、設備を整えた割には乾燥調整利用料が日本一安価なライスセンタ-です。 これをきっかけとにして、他の農業機械の共同利用にも結びついてゆければ、更に欲張って地域の後継者にうまく引継いでいければと願っています。
 今年はじっくりと「協と共」の意味を考える年にしたいと思います。

スケッチ”我が家のお正月”

志藤知子 藤島町 1999.1.22

 この家の一員となって21回目の春、長男20歳の春を無事に迎えた。21年をかけて築き上げてきた家庭に自分たちの背をはるかに越えた長男、次男がいて生意気盛りの長女がいる。老いてますます元気な父がいて、働き者の母が健在である。
 大晦日の夜ふかしがたたって、なかなか起きあがれない元旦の朝、眠気をふっきるように台所へと向かい、お雑煮の準備を始める。 昔は、男達が焼いてくれた元旦の餅も、近年は、その風習もうすれたまま焼き上がってしまうことが多い。
 夫はいつもと変わらず豚舎に出て、取り敢えず餌だけ与えて家に戻る。年末に揃った子供達を無理矢理起こして、家人と同じように神仏を拝ませ食卓につく。
 元旦の朝は、お雑煮の他にはとりたててご馳走はない。今流の重厚なお重に色どりよく並べられたおせちなど、我が家の伝統にはなく、キンピラごぼう、白たきと人参を真ダラの子で和えた子いり、それと、かまぼこ、漬け物がご馳走のすべて。御神酒が家長である夫からつがれ”新年の食”が始まる。
 昔なら、年の数程食べたというお雑煮も夫が5個、私が2個、胃袋の目覚めない息子たちもようやく2個、娘は1個がやっと。
 食事が済むと夫は、座敷の床の間に備えてあった我が家特製の大きなお供え(鏡餅)を神棚にあげ柏手を打つ。あらかじめ暦で調べておいた”歳徳の間”(その年一番良いとされる方向)に向いて正座している家族一人一人の頭の上に、お供えを乗せて齢を配って歩く。
 健康に恵まれ無事に年を重ねられたことに感謝し明けた年の幸せを祈りつつ礼をすると朝の行事は終わる。
11時には村の公民館で年頭の酒宴が行われるので、夫はゆっくりとくつろいで、テレビを見る暇もなく、豚舎へと急ぐ。私は夫を送り出した後、ゆっくりと年賀状を見たり、書いたりしながら時をすごす。思い思いにこたつに足を入れて寝ころぶ子供達をながめながらすごせるのもお正月ならではのこと。そこにいるだけで嬉しい。
 夕方、まだ戻らない夫を待たずに早めに豚舎に入り、作業をすませ、義弟を迎えに駅へ行く。半年ぶりの帰省に少し嬉しそうな、少し恥ずかしそうな顔をして穏やかに笑う幼馴じみの同級生を義姉が気取って迎える。
 ”東京は静かだった?”とか”去年のお正月もこんなに雪があったかな”なんて、たわいもないことを話題にしながら家へ戻る。
 年に二度しか戻らない彼を迎えるとようやく我が家にもお正月らしく、精一杯のごちそうが並ぶようになる。家族全員が揃って、酒をくみ交わしながら嬉しいひと時をすごす。高三の次男までもが、お正月ばかりは許されて酒をついでもらう。
”この子が一番の酒豪になるのかな”飲みっぷりの良さに、思わずそんなことを想像してしまう私がいる。一年一年、大きくたくましく育っていく子供達をまぶしい思いで見つめている私がいる。
 養豚と除雪作業はあるものの最小限の仕事をして、2日、3日とのんびりすごし、四日の朝。切符がとれなかったからといって早朝の”いなほ”で帰る弟を夫が送り、私は町の消防の出初め式の手伝いに出る。
 町の婦人会に所属し支部長をつとめる責任上、特別な行事がある度に、駆り出される。あったかい麦茶を用意し、当地名物の玉こんにゃくをにて串にさす。
 厳寒の中、わざわざで出向いてくれた来賓や観客をもてなすのが目的だ。こういう役目でもないと、めったに見る機会のない出初め式を見せてもらったが、十数年前、夫が分団長をしていた時には見られなかった、茶髪やロン毛をなびかせて、堂々と放水訓練をする若者を見て、時代の移り変わりを思った。
 午後1時には、バスケ部の2泊3日の合宿に参加するという次男を送って、学校の寮まで約40分をかけて走る。187センチの長身を折りまげるようにして狭い車の中に乗っていた彼は、片手にむき出しのバスシュ-、背中に、ごちゃごちゃに丸めたユニホ-ムをつっこんだカバンを背負って、雪の中に駆けてゆく。
 ”又、来週!ケガをしないように頑張れ”かけた声を背中に受けて建物の中に消えてゆく。
 5日の夕方、最後になった長男を、仙台行のバス乗場まで私が送る。年末年始の5日間、家庭教師のアルバイトを持ち帰ってきた長男は、馴れない雪道を、山伏の修行で有名な羽黒の山のふもとまで通った。
 宿望が続く までは、行きも帰りも坂道で、運転の不馴れな長男を不安な思いで送り出していたが、慎重な性格が幸いして、ヒヤッとする瞬間もなく終わったのでホットした。雪道の運転も、雪国にとっては避けられない事、これも良い経験になったのかもしれない。
5日目のアルバイトを終えたその日に帰る、という長男をうらめしく思いながら車から降ろす。”母さん、仕送り少し減らしてもいいよ。”なんて言葉を残し、片手をあげてにっこり笑って帰る長男を車のバックミラ-で確かめながら車を出す。
 1人減り、2人減り、3人目が帰って、淋しくなった広い家で、又、いつもと変わらぬ日常が繰り返される。この平凡な繰り返しこそが、幸せというものかもしれない。とボンヤリ考えながら、慌ただしく我が家の正月はすぎていった。そして、しばらくは、部活と勉強の両立に思い悩む娘の不機嫌をかわしながら、暮らしていくことになる。

 今年も良い年でありますように

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