庄内協同ファームだより

トップページ > 庄内協同ファームだより > 庄内協同ファ-ムだより 1998.12月発行 No.49

「農業という職業」から

志藤正一 藤島町 1998.12.22日

 先日、私が住む町の中学校で、”職業講話”と言うものをした。中学2年生に進路選択のために町内のいろいろな業種の人達に話を聞く機会を作るのが目的で毎年行われている。
 町の中心産業である農業の話も是非という先生の申し出を断りきれず、出席したのはいいが、与えられた20分間、200人近い生徒の前で、何を話したか殆ど覚えていない。「 最近農業をしてみようと言う子供が居るのですよ」と言う先生の言葉を聞くにつけ、もう少し時間をかけて準備をすべきであったと反省することしきりである。
話を聞く子供達の顔を見ていてつくづく思うのが、自分の子供を含めてどれだけの子供達が農業に就くのだろうかということである。町内には1000戸近い農家がありながら、毎年新規に就農するのは居ても1人か2人というお寒い状況が続いている。
 「農業は他人に縛られることなく、自分の生活が設計できる。」とか「自分の好きな作目を経営に取り入れることができる。」とか「これからの地球環境を考えると農業はリサイクル産業として、なくてはならない産業となる。」とか話しては見ても、3Kの言葉に代表される様に毎日地道に努力を続けた割には経済的も恵まれないと思われる仕事をいざ自分がやるとなると二の足を踏むことになるだろう。
 私達は10年来産直を通じて、消費する人達の理解を深めながら、安全でおいしい農産物をつくる努力をしてきた。この間、遺伝子操作や環境ホルモンの問題など多くのことを学習し、生産の場でも今まで以上に、種子の確保から、化学肥料や農薬購入資材に頼らない食べ物作りの必要性を感じている。
しかしこの道は決して易しく平坦な道ではない。私も無農薬で柿作りに挑戦し、3年目で”収穫ゼロ”という悲惨な結果を経験した。私だけでなく庄内協同ファームのメンバーも、おそらく日本中の有機栽培や無農薬栽培に取り組んだ人達も大なり小なり同じ様な経験をしていると思う。経営的にも、周囲との関係を始めとする、精神的な面でもいろいろと苦労があるのだ。
 これらの問題を克服しつつ、10年かかってようやく、集団で無農薬栽培に取り組むことにこぎ着けることができた今、新たに゙有機農産物の基準の認証”が始まろうとしている。
 流通の方法(表示)を単純化し、消費する側がわかりやすくして欲しいという要求は解らなくはないが、農業生産はそれほど単純ではない、毎年変わる自然の天候に支配される部分が大きいのだ。安全でおいしい食べ物を要求する人はまず、この農業の宿命を理解しなければならないと思う。
 すばらしい農業の技術を持って、有機栽培を実現した人、また理論的に実現可能だとする人は少なくはないと思う。しかし現実に国の基準に達する有機農産物は微々たる量で流通しても偉く高価なものになるということだ。安全でおいしい農産物を多くの人達が妥当な価格で食することができるためには、我々作る側と消費する側が今まで以上に理解を深め、後継者の育成を含め、時間をかけて基礎となる土壌を醸成しなければならない。一編の法律など役に立たないし、むしろ有害だと思う。
 今回の有機の認証で、今まで、減農薬や減化学肥料を志し、産直に活路を見いだそうと地道に努力をしてきた農業者の多くが取り残されることになると思われる。負けてはいられないと思う反面、いったいどれだけの人達が、将来の日本の農業を背負い、本物の食べ物を作り続ける事ができるのか、そんな不安な思いが浮かんでは消える。

私の夢は「グリ-ン・ツ-リズム」

小野寺美佐子 1998.12.25日

 村々に羽黒山の山ぶしのほらがいが鳴り渡る頃になると、不景気に泣いたこの1年も幕をとじ始めます。
先日、印象に残った事はと尋ねられました。とっさには答えられない位、忙がしい1年でしたが、印象に残る程特に力を注いできたことは「グリ-ン・ツ-リズム」でした。
昨年と昨々年、私はヨ-ロッパに研修視察に行ってきました。そこで見てきたものが、ヨ-ロッパ型グリ-ン・ツ-リズムでした。 旅行好きな私は、どんな意味あいの旅行でもよかったのですが、たまたま農業関係の機関に属していたり庄内協同ファ-ムの女性達の長年の夢の実現ということで、二度もヨ-ロッパに行く機会に恵まれました。
その後、県が行なった勉強会に参加、私にも出来るのではと思うようになったのです。 イタリアで泊った農家ホテルは、馬小屋を
改築したステキな建物でした。我が家は、築100年の農家屋です。隣村の大きな地主から、婿に入った祖父が、実家のような造りの家として建てた家敷でした。厳格な祖父が柱や板戸を傷つけるのを禁じ大切に住んでいた家でした。
 道楽人だった父の末っ子として生まれた私は、我が家の栄華も、美観を誇った家敷の記憶もなく、物心ついた時には田も畑も家敷も荒れ放題でした。それでも私は、太い梁や高い天井、白い壁のこの家が好きでした。
祖父がプライドをかけて造り上げてくれ、私や子供達をのびやかに育ててくれたこの家に、新しい生命を吹き込んで見たいと思いました。その思いが「グリ-ン・ツ-リズム」に継がったのです。私が楽しんでいる農の暮らしを、みんなと分かちあいたい!そんな思いを膨らませていったら”ああもしたい””こうもしたい”と夢はどんどん大きくなってゆきます。
 けれど現実は厳しいものでした。全国の中でも山形県は「グリ-ン・ツ-リズム」には厳しい県なのだそうです。許可の基準がかなり高く、ここまで努力してやる人が何人いるのかしらと思う程でした。勉強会の時の話とはあまりにギャップがあるので、県の農政課に苦情を言いに行ったこともありました。
 それだけでなく、一番身近の母と夫が反対するのでした。頼りにする人に反対されるのは本当に心細いものでした。でも私はやると決めたのです。子供達を説得し、夫に理解を求めるべく再度話合いです。ドラマティックな話し合いの末、夫も納得してくれました。 母は最後まで反対でしたが、手配しておいた宮大工さんをこれ以上待たせるわけにもいかず、夫と共に資金繰りです。雪が舞う季節になりやっと3ケ月遅れで着工出来る事になりました。「グリ-ン・ツ-リズム」をスタ-トさせるには、まだまだ解決しなければならない問題が山ずみです。
 98年は、下地づくりに奔走してきましたが
99年は、祖父から受け継いだものを活かし、私らしい農の華を開かせてみたいと思います。

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