庄内協同ファームだより

トップページ > 庄内協同ファームだより > 庄内協同ファ-ムだより 1998年6月発行 No.43

スケッチ

富樫裕子 余目町 1998.6.30

『暑い夏が終わりかけた頃、ドイツのコブレンツからキクちゃんがやってきた。「英語だってやばいのにドイツ語だぜ、どうしよう」我が家は大騒ぎ。11月の中旬、妻が協同ファ-ムの仲間たちとイタリアとドイツへ10日間の旅行へ。ストックの花の収穫の真っ最中で私は収穫と出荷で忙殺される。ドイツからFAXで「愉しい旅行をしています。ストックの収穫よろしくネ」としおらしい便り。そして高1の娘が、来年アメリカに留学することが決まり、我が家も世間並みに国際化に飲み込まれました。世の中、自由化とビックバンの時代とかで、もうメッチャクチャ。「我が家」と「ニッポン」どういう新年になりますか』
 これは夫が書いた今年の年賀状の文面。
 下の娘が高校の国際科に入学。あなたは何ヶ月くらいなら留学生を受け入れますかという入学式の日のアンケ-トで、少しは覚悟していたのですが、思いもよらない展開となりました。昨年の7月頃、娘の家族一人一人への説得に、夫や舅はほどなく承諾。けれども4~5年前から三食すべての食事の担当をしている姑はなかなかすぐに返事を出してはくれませんでした。それでも娘の強い説得で、キクちゃんは我が家へ来る事になり、心配していた言葉は、日本語、フランス語、英語、ドイツ語を流暢にはなせる彼女によってすぐに解決されました。
 25年前にドイツに渡ったという彼女の両親ですが、キクちゃんは生まれも育ちもドイツ。なかなか日本人と同じという訳にはいかず、簡単に受け入れを承諾した男達は細かい事でぶつぶつ。そのたびに姑の「家の生まれの者には、よそから来た人の気持ちなんかわからねもんだ。引き受けた以上は気持ちよく帰してやるもんだ。」の一言に、次の言葉を失ってしまいます。
 そういえば、私はこの家に嫁いで20年以上たつけれど、姑と喧嘩した記憶が1回あるだけです。姑はあまり口数の多い人ではない分だけ、なれない時は何を考えているのかわからないもどかしさや、やさしい言葉をかけてほしいという思いにかられたものでしたが、慣れてくると、それが彼女流と理解できる様になり、不思議と腹の立つ事がなくなりました。いつも強気で、少々の事では医者にもかからない人でしたが、70をすぎて歳にはかてず、田植えを今年も手伝ってくれてしばらくしてから、左手に違和感を感じた時、異常に高い血圧に一番驚いたのは彼女だったと思います。近くのかかりつけの医院でという姑に病院での検査を強くすすめ、10日余りの入院生活を送る事になりました。
 2月からよその家にいっていたキクちゃんも二度も見舞いに来てくれて、彼女が柔道の練習の時に手首を鍛えるために使う器具をプレゼントしてくれ、その後何度か我が家に泊まって、家族全員で見送る中、先日ドイツへと帰っていきました。
 我が家は夫と父と母、それに祖父母がおりますから、女性が3人になりますが、ほとんど言い争った事がありません。3人だから逆にバランスが保てているのかもしれませんが、祖母はいつもひかえめで、私の子供達が小さい時に面倒をみてもらいましたが、そのおかげでやさしい子供達に育ってくれたのかもしれないと思ってます。  大家族の中での女性の果たす役割、特に農家にとってはすごく大きいものがあります。今回姑が10日間の入院の時には、私にとっては農作業と家事に追われ、まったく余裕のない日々が続きました。私も2年ほど前、2ケ月間ほど入院しましたが、姑は大変だったろうと想像できます。最近、弱音を吐く姑に、「おばあちゃんらしくないネ」と言うと「一応中風だからネ」と笑って答えました。まだまだ前の様に元どうりになるまではしばらくかかりそうだけれど、一日も早く元気になってほしいと願ってます。

”東京から”No2「立っているところ」

東京駐在員 吉澤 淳 98/6/29

―あの頃―

 庄内行き全日空の金をかけた機内誌に、パリの5月革命の話が載っていた。1968年の事だからもう30年も前の話だ。当時の運動家たちも、社会の中枢にまでのぼりつめていて、インタビューした所、あまりに保守的になっていて驚いたとお決まりのオチが付いていた。日本でも当時「意義申し立ての運動」が全国を席巻していて、まだ小さかった私の記憶は断片的なニュースの映像。ハッキリと印象に残っているのは、浅間山荘事件(1972)で、ランドセルを置いてずっとTVを見ていた。

―若い頃―

 庄内協同ファームの男衆は、第二次世界大戦に日本が負けてから6年の間に生まれた者が多い。だから同時代に色々なことを見て感じていたと思う。同じ農民の問題ということで、だいぶ三里塚(成田)空港の反対運動には心情的な肩入れをしたようだ。小川プロの「三里塚」シリーズの映画上映会を地元庄内でやったのが組織発足(庄内協同ファームの前身の庄内農民レポート)のきっかけだったと聞いている。
 農家の長男が当たり前のように跡取りになった最後の世代だ。以前、ある男衆が描いた絵を納屋から引っぱり出して見せてもらったこがある。赤い大きなトラクターの前で誇らし気に腕を組んだ二十歳の彼がいた。彼らが就農した頃はまだ手作業中心の農業で、こんなことを一生やるのかと思うと気が滅入ったという話も聞いた。まだ減反も始まってなく、国民の食糧としての米を増産しようというかけ声が高らかに響いていた。
 当時、多くの男衆が通った庄内農業高校には教員に評論家の佐高信(さたかまこと)がいた。「社研」の顧問もやっていて、何人かは部員だった。音楽・美術・芝居が好きで、「少々訳ありの喫茶店」に溜まっていた。今でも、ラッパを吹きバンドをやっている者、絵を描いている者が何人もいる。さすがに芝居はやらなくなったようだが以前は劇団までやっていた。まあ、ちょっとハズレタ、イケテル連中だったのは事実だ。同年代の人なら腑に落ちる、社会という大きな醸造装置が産み出した、とある組織が庄内協同ファームの原形だ。

―それから―

 組織を作り、農業問題を語り合い、地元の古老の聞き語りを冊子にまとめ、減反を拒否しようと挑み二軒以外は心ならずも挫折して、農協が買ってくれない仲間の米を売ろうと産直を始め消費者(団体)と出会い(この辺りから私も登場)、稲作中心の農業の冬仕事として餅加工を始め、組織を法人化し、加工場も建て、非農家出身の専従職員も雇用した(みんなの母校庄内農業高校卒業の二十歳のカッコイイ青年もいる)。加工技術は向上し、おかげさまで売上げも伸び、各人の経営に占める産直の割合も大きくなった。
 こんな風に書いてしまえば、25年などあっという間だ。ふと集落を見渡せば専業農家の数はどんどん減っている。山場の方では耕作放棄地も増えている。まずは自分たちのことで精一杯だが、自分たちだけでは農業は続けられない。何とか周りの農家のことも考えなければと思うのだが、有機農産物市場はそれ程大きくなく、競争も厳しい。それよりも、大学に通い始めたわが家の子どもたちの将来に頭を痛めている。冴えた青年たちもフツーのお父さんになった(まだカワリモノと言う人たちもいるけれど)。  若い頃からいろんなことをやっている割にはけっこう慎重で、石橋を叩いて壊す(?)と言われた我が男衆は、さらに寄る年波を味方に付けて例に漏れず保守化してきた。パリも庄内も変わらないだろうし、新しいことに挑戦する気力はともすれば失われがちだ。どんなに過去が素晴らしくても昔は昔で、大切なのは今やっていることだ。今年などは水田の除草のため、ある農法(やり方)に多くの人が取り組んだ。「鴨」や「鯉」も使っている。農薬や化学肥料の使用量を減らす為の実践も年に一度しか試せない。失敗したら経営上大打撃になる。これといって確立された農法が無い中で地道な努力が続いている。

―これから―

 「環境ホルモン」や「遺伝子組み換え農産物」に大きな関心が集まる中、組織で直接加工しているものについては包装資材もすでに対応が済んでいる。各人が生産加工しているものについては遅まきながら点検を始めた所だ。使用済み農業資材の処分方法や、組織では出荷していないが畜産の飼料(ほとんどを輸入に頼っている)等すぐには解決できない問題もある。切ない話だがそれを言い訳にせずやっていけたらと思っている。

 「環境ホルモン」や「遺伝子組み換え農産物」の問題は、マチに住もうがムラに住もうが等しく、「さてどうするんだい」という問いかけを私たちに発している。現在の暮らし方が問われているのだ。問題提起や警鐘を鳴らす時は過ぎ、後はできることできないことを正直に語りながらの実践しかないだろう。私たちの歩みは遅いかもしれない。けれど、今起きている問題を全身で受けとめて、美味しくて安全な農産物や加工品をこれからも作り、届けていく。

 夏の企画品どうぞよろしく。



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