庄内協同ファームだより

トップページ > 庄内協同ファームだより > 庄内協同ファ-ムだより 発行No.93 2003年2月

農民レポートから協同ファームと私

(草莽・がむしゃら・これから)  富樫 善之 羽黒町

一、草莽の頃 -農民の持つ歴史・哲学・賢治の農民芸術概論を経て-

老農からの聞き取り、庄内農業の転機となる乾田馬耕、これらの基盤を作ってくれた先人達への感謝を込めたリポート。
青年団・農協青年部・映画上映会等々、如何に作物を作るかは農民自ら決めるとのスタンスから、強制減反への反発・反対・拒否。そして“疲れ”が残った。
仲間内の実感は、-慰めあいから蔑みあいへ、蔑みあいから励ましあいへの発展―、反発心は人一倍強い我がまま者が地域・組織から抜け出て、体制内改革は無理と自らモデル作りを模索する。

二、がむしゃら -生意気さで人脈を拡げる-

反発や拒否だけでは駄目、自分の作った生産物を自ら価格を付けて供給出来ないようでは、他を批判出来ない。産直の始まりである、今にして思うと無茶苦茶でした。生産物を満載した車が高速道でエンコしたり、都内の配送で道に迷ったり。交流会も多種多様で夜も更けてどこの部屋で寝るのかと聞くと、喧々諤々の議論をしているすぐ隣の板の間に毛布を被ってくれとの事、ゆっくり寝むれたものではないので、また起きだして議論に加わったり、まさに朝までバトル状態でした。最初は唖然、でもこんなものかと交流(武者修行?)を重ねると、三里塚・水俣等の全国区の運動を通じて人脈ができました。

三、そして -もじゃ・もじゃの議論の後に-

 各メーカーの餅を食べ比べて、これなら自分らで作った方が良いとの結論。各10万円ずつ出し合って、餅の加工場を作った。それから、20年程品質を安定させ、品目も増やし他に、麦・豆の加工とメンバーのおこし・ヘチマ水・漬物とバリエーション豊富になった。20代の頃、中国農村に学ぶツアーを組んでいた頃の諺にある“一本の蔓に、多くの実が成る”そんな状態です。

四、これから -どんな絵を描けるか-

我がままが集まって、組織を作り運営をやって来ました。メンバーの体力も無理が利かなくなりつつあります。無登録農薬・産地表示・スローフード・ガット等々目まぐるしい動きです。今の状況は、より根源的な所を問われているように思います。
バブルが去り、市場原理優先にも翳りが見えて、もっとルールを明確にしながら、経験知を加えるしかない状態です。
こんな状況の中の日本・山形県庄内で“食べ物”を作ってゆくとはどんな事柄なのだろうか。現地点から先を読まなければ成りません。

 かって、京大の今西先生が先の読み方について、論じておられました。それは、まず過去に意識を飛ばし、そこから現在を通じてその先を見据えるというものだ
ったと思います。この手法をここで活用すると、まず、学生時代に強烈な刺激を受けた、敗戦後の日本の食糧をどう確保するか、当時の石黒農相を中心に検討していたグループがあり、分野毎に研究が引き継がれていて、私は“傾斜地に於ける食糧生産“をライフワークにしました。
人間にとって必要な蛋白源を魚類と家畜(穀類を餌として)に求めてきました。この供給は逼迫して来るのが明白です。
今が再出発の時期なのです。その形として、自然保護団体の研究会でのファームメンバーのパネラー発言「自然と供に在り、継続してゆける形態は社会構造上もコストの面からも、評価されうるものだ」があります。

私の足跡をたどると、インドネシアの開発輸入の現場研修一年、タイのモデル農場(オランダの支援)、ヒィリッピンのデルモンテ農場と加工残滓を活用した畜産、シベリア極東部、中国黄土地帯と南部農村地帯、朝鮮半島の状況とテーマを“生産の形”として見て歩きました。
益々、月山の山麓部での生産の重要性に確信を深めています。
 長期的には、木の実(胡桃・銀杏)中期的には発酵食品、短期的には雪の下でも育つ作物を入れた2年3作(例:豆・麦・赤蕪)とこれらの加工品。道は遠いけどイメージは出来ていて、技術を積み・土地を増やして、皆さんの目にも後5年あれば理解して頂ける一個の作品としてその形を現してきます。

長いようでも短い時間でしたが、やっとここまで歩いてきたというのが実感です。
中国の賢人の言葉に“終わりを恐れる事なかれ、始まりを持たざる事を憂えよ”と励ましてくれています。

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